2018年1月20日土曜日

30歳、コミュ障を振り返る~その2~

同じタイトルの~その2~に続き、自分に可能性がある自閉症スペクトラム障害(ASD)
について調べた今、自分の半生を振り返っていく。

この作業、思っていたよりエネルギーを使う。
座って黙々とノートに書き出し、なるべく簡潔になるよう書き直しながら
PCにタイプするという作業は、地味で静かなのだけどなかなかしんどい。
動いていないのにお腹が猛烈に空くし、眠くなる。
睡眠は浅くて、翌日起きても頭がボーっとしていた。
もう少しでスッキリ、消化出来る気がしている。

話が逸れたが、私が色んな本を読んで知りえたASDの特性の大きな3つは以下。
①人との関わり方が苦手で、社会的なやり取りが困難 
②コミュニケーションが困難
③想像することが困難
ちなみに自閉症スペクトラム障害の「スペクトラム」とは「連続体」という意味。
これは同じ障害でも知能指数には高低差があり、
軽症から重症まで広汎に分布しているからそう名づけられている。
ASDでも知能指数(IQ)が高い場合と低い場合でそれぞれ障害名はついているけど
境界が明確でないのでその総称としてASDと呼んでいるようだ。

心理検査ではIQが数値化されて結果に表示される。
私も検査を受けたけれど、IQは正常範囲だった。
科目の得手不得手はありつつも、学校の勉強の成績はどちらかというと良い方だったので
その結果に異論はなかったのだけれど、だから気付かずにきたんだなと納得できた。

物心ついてから中学校を卒業するまで、小さな町で育った。
なんとなく自分が周りの子とは違うと感じていても
それはコミュニティが合わないだけ、ずっと同じコミュニティにいるからだ、
と考えた私は、高校からきっと人生は明るくなると思っていた。

                                      

新しいコミュニティに属したかった私は、自宅から電車で1時間の距離にある私立高校を受験した。ゆとり教育の先駆けだった当時、自己推薦入試制度があり、学校の成績と面接と作文で受験が出来た。面接も作文も、過去問からのロープレや対策をして無事、合格。高校受験という人生最初の「受験」を苦労なく乗り越えた。

高校生活の始まりは楽しかった。育った環境の違う同級生との何気ない会話のやりとりや放課後の遊び方に戸惑いはあったが、中学の学区が違う子達ばかりだったので「中学ではこうだった」「地元は田舎で何も無いから」と言い訳をしながら教えてもらった。校則が厳しい学校だったので、学校内では決められた制服をキレイに着ていれば問題なかった。同級生が放課後に着替えて遊ぶ為に可愛いベストや靴下を持っているのがわかると、急いで親に買ってもらった。皆が読んでるという雑誌を買い、ファッションページだけでなく特集ページなどもくまなく読んで流行りの言葉やアイテムなどを知っていった。今から振り返れば痛々しい苦労だったけれど、新しい事を知り、その結果同級生に溶け込めているように感じられることが嬉しかった。楽しかった。

入学してすぐ、文化祭や体育祭の学校行事を運営する有志の部活に所属した。行事の準備・運営・管理はとてもやりがいを感じる事だった。前年から引き継いだマニュアルを基にやる事リストをこなすのは私にはわかりやすかったし、集団行動が苦手な私は、クラスメイトと一緒に催し物をやるよりは、一歩下がって裏方として立ち回る事の方が気が楽だった。文化祭のクラスの打ち上げには片付けで参加できない事もあったが、寂しいとは思わなかった。それより、やらなければならないタスクがあり、順番に片付けて行く事が楽しかった。自分が考えたり準備した事で同級生が楽しそうに過ごしている姿を見るのが嬉しかった。学校や人づきあいは苦手だけれど、私は人間が好きだし誰かを喜ばせる事が好きなんだと気付いた。

学校以外にも自分の居場所が欲しくて、ゲームや漫画の趣味を通じて色々な人とやり取りをした。イラストが可愛い、描いた人に会ってみたい、と思えば連絡を取って交流の為のイベントに行き、好きなものについてお喋りをした。そこでは好きな事について一方的に話しても、嫌がらせなどは受けない。学校とは違って次にいつ会うかわからない関係性なので過剰な気を使う必要も無く、気楽だった。私はそこで大人のコミュニケーションを体験している、と思っていた。

高校生活の大半は楽しかったが、やはり人間関係のトラブルはあった。雑誌のハウツー特集で習得したコミュ力も3年間の学生生活の内に剥がれていった。私に付き合いきれない・愛想を尽かしていく人も出てきた。付き合った彼には別れ際に「いい事をしているように見せてこちらの気持ちを何も考えていない」と言われ、仲良くしていた女の子には突然無視されるようになった。私が彼女の交際相手について気分の悪い事を言ったのがきっかけだと他の友人に言われたが、ちょっとした皮肉のつもりで悪気は無かった。ある日から同じクラスの中でお弁当を一緒に食べる仲間がいなくなったが、自分の非を理解してない私は棟が違う他のクラスの友人の所までお弁当を持って行ったり、時には好きなゲームが同じ男子と一緒に食べたりした。そうしようと自分で決めると怖くなくなった。むしろそれが一匹狼でカッコイイ、とも思っていた。

通っていた高校は付属の大学があり、学内試験で付属大学に進学する選択肢があったが、私は行きたい大学・学部があり、そこを受験する事を決めた。同じ関東でも自宅から離れた所にあるその大学に通うには実家を出る必要があった。都会のど真ん中にある大学で、地元とは何もかもが違う。育った町から1時間かかる高校に出てこんなに楽しかったのだから、もっと都会で遠い所に行けばもっともっと楽しくなるはずだと私は考えた。

範囲が決められた学校のテストは得意でも、ゴールまでの対策を自分で考えなければならない受験勉強は苦手だった。第一志望の大学は不合格。受験当日、得意な英語の試験で知らない単語が出て来て試験中にパニックになり、試験時間が終わった直後に母親に電話して「もうダメ。帰りたい」と言った事を覚えている。

唯一受かった大学に入学したものの、第一志望が諦めきれずに3ヶ月で中退して浪人生になった。浪人時代も親には自習してくるといってハマっていたミニシアターに通って映画を見たり旅行に行ったり。何のための期間なのかと問われると答えには詰まったけれど、自分が見たい、行きたいと感じる好奇心が最優先で罪悪感は無かった。浪人した年に志望大学・学部のAO入試が初実施され、3ヶ月の大学生活で得た論文とディベートのノウハウで合格、憧れていた大学生活を叶える事になった。私以外は現役高校生ばかりのAO入試の会場には茶髪・ピアス・スーツで行った。

大学生活はそれまでの人生のどの時代より楽しかった。入った学部は真面目で正義感の強い学生が多く、少数派の意見も論理的に筋が通っていれば聞き入れられた。地方出身者、帰国子女、留学経験者もいる中で人と違う行動を取っても、悪口を言ったり集団で無視する人はいない。高校時代の経験から大学祭実行委員会に所属して、友達とは違う「同じ目標に向かう為の仲間」も出来た。アルバイト先で学校とは違う人間関係が築ける事も新鮮で、楽しかった。私は時間の許す限り、色々な団体に所属した。

「集団」対「わたし」という点では最も充実していた大学生活だったが、大学で出逢って今も連絡を取っている友人はごくわずかだ。大学卒業とほぼ同時に、私自身が拒絶をしていまった。

集団に属した時、私はそれぞれで何かしらの役割を担っていた。「後輩」「先輩」「ゼミ仲間」「大学祭実行委員」「副委員長」「飲み会幹事」「アルバイト」など。集団毎に目的があり、目的に沿った立ち居振る舞いを考えて行動すればいい。「飲み会幹事」であれば「幹事のタスク」をネットで調べてそれに沿った行動をすれば、ミッション終了。嫌な顔をせずに終えれば参加者からは御礼を言われる。個人的に相談をされた時、先輩からなら「後輩」らしい呑気な回答を、後輩からなら「先輩」らしい回答をすれば良かった。それぞれの集団に行く前には自分の中で役割を考えて準備をしてシュミレーションをして臨んだ。自分が上級生の実行委員会ではクールに「おはよう」と挨拶して、年上ばかりのバイト先では元気よく「おはよーございまーす!」と挨拶しよう、そんな具合に自分を調整した。それがTPOに合わせた行動だと思っていた。集団ごとに演技をしているようなものなので、すごく疲れる。でも繰り返す内にそれが当たり前になり、私はそれこそが社会人になる前の学生生活で経験するべきステップだと考えていた。下手な演技はばれていただろう。何度か行った合コンで連絡先を聞かれる事は無かった。時々「無理しなくていいよ」「疲れるでしょ?」と声をかけてくれる人がいたが、これが私のやり方だと通すことで気にかけてくれた言葉を無視した。

役割が無いと動けない私は「自分がしたい事」を明確にして、その為のプロセスを自分で考える事が必要な就活で挫折をした。沢山の会社説明会に行き、100社近い会社にエントリーをして、面接も沢山受けたが、全て落ちた。内定ゼロ。就活シーズンの少し前に行われた「模擬面接」では一番いい評価をもらった。3人いた面接官役の講師たちの反応も良く、フィードバックもほとんど無かった。その調子で企業の面接に臨んだけれど、結果には繋がらずただ大学側を憎むだけだった。

「ヤル気ある学生を求めます!」と言ってヤル気がある自分が落とされる事が理解できず、ヤル気の示し方も間違っているなら教えてほしかった。雑談が盛り上がって笑顔で終えた面接も、数日後に帰ってくるのは見慣れたお断りのメール一通。どういうつもりだったのかわからなかった。ファッションに自信があるわけでは無いのに「私服可」の面接は全て私服で参加した。その面接にリクルートスーツで参加した同級生が受かったという話を聞いて、それなら「私服可」などと書かないで欲しいと思った。
真面目に単位を取り、必死に周囲の顔色を窺ってふるまった自分が必要とされない社会なんてこちらから願い下げだ、と思った。先の予定を何も決めずに大学を卒業した。継続を提案してくれたアルバイトも辞め、卒業間際に内定の無い私に連絡をくれた大学就職部からの連絡も全て拒否して、空っぽになった。自分は社会から見放されたのなら、自分からも見放してやるつもりだった。

親は私に甘く、周囲の人達も優しかった。「あなたならどこかで必要とされるよ」「不況だからたまたまだよ」と言ってくれた。それなら、私を雇ってくれる会社を教えてよ、と言いたかった。社会から下された評価と、身近な人たちの言葉のギャップに戸惑った。

大学を卒業した3月、商品が好きな会社のアルバイトの面接を受けた。留守電に入った業務的なお断りの言葉にパニックになり、電話をかけなおして理由を問い詰めたが、教えてはくれなかった。大学の卒業式、同級生たちと同じように袴を着て写真を撮った。明日から自分の「役割」が無くなる。そう考えると不安だったけれど、苦楽を共にした同級生との最後の時間は楽しかった。4月からの仕事の事を憂鬱そうに話したり、配属先が地方に決まりやけ酒を飲んだり、どれも私には羨ましくて眩しかった。やっぱり私は皆とは違う、そう確信した。

                                      

高校か大学卒業までの約7年間。
中学までの15年間以上に思い出して書くのが辛かった。
大人になればなるほど、わかりやすい傷つき方をしなくなっていたからだと思う。

私自身のコミュニケーションや受け取り方に特性がある事は変わらない。
小さい頃は、思った事を口にしたり、自由すぎる行動をとると
友達は嫌な顔をしたり、次の日から遊んでくれなくなったり、反応がわかりやかった。
こちらも怒ったり泣いたりして、その時の感情を消化する事が出来た。
小さい頃の私は、不貞腐れたり泣いている時が本当に多かった。

大人になればなるほど自分なりの生きるコツを習得するようになった。
一度嫌な顔をされた事は言わないように努めたり、
本やインターネットから「普通のコミュニケーション」を学ぶ事も出来た。
でも、時にはほころびが出る。やらかしてしまうのだ。
その時の周囲の反応も、小さい頃とは違う。
皆、相手(私)を傷付けないようにそっと去って行ったり
小さなほころびであれば、見ないふりをして関係を続けてくれるのだ。
それが、大人としての対応だからだろう。

時々、ズレを指摘してくれる人はいた。
けれど、私自身が自分に原因があると思っていないので、
相手の事を「小うるさい人」「嫌な事を言う人」として拒絶していたと思う。

周囲から傷付けられる事が減っていけば、
そもそも自分ではおかしい点を自覚していないので
自分は何か人と違っている、ずれてる、と思っても、深く突き止める事はしなかった。
突き止め方はわからなかったし、誰も教えてくれなかった。
むしろ人には無い発想が出来る天才肌なのかもしれない、と
普通では無い事を都合よく解釈していた時期もある。
自分をきちんと客観視できなかったツケが就活での内定ゼロだったと思う。
同級生と一緒に「自己分析」と言っても本当の意味で分析していなかった。

蛇足だが、私が就活生を終えて数年後、朝井リョウの『何者』という
就活生をテーマにした小説が発売されて読んだ。
大人の決めた就活という競争の中で、体裁や裏切りや自我の中でもがく姿が
就活当時の自分と重なって思い出されて、辛かった。
一方で、客観的に書かれたこの小説を当時読んでいたら
自分がずれてて「イタイ人」だった事にも気付けたかな、と思った。

大学を空っぽの状態で卒業した私は、
1年後にウエディングプランナーとして新しい土地で働き始める。
結婚して引っ越しをするまでの6年間、その環境での仕事に没頭するのだけど、
その間にもがきながら得たものが、普通っぽくふるまう為の大切なものになっている。

今もまだ普通じゃない所があるけれど、
ここに書いた思春期の頃よりは、自分の事がわかり、普通の基準を知り、
そのうえで自分がやりたい事をことばに出来るようになったと思う。
ウエディングプランナーに没頭した7年間は
私にとってとても大事な時間だったので、また改めて書きたい。

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