2018年5月29日火曜日

自分に正直に生きる事の難しさ

勝間和代さんが同性との交際を公表されました。

同性を愛するということ 勝間和代のカミングアウト https://www.buzzfeed.com/jp/daisukefuruta/katsuma-masuhara?utm_term=.oubE8ar7G

私は最近になって勝間さんのロジカル家事の本を読み、自分自身の判断基準をしっかりと定めてそれに沿って行動する生き方とと相反するように会話のように親しみやすい文章に感銘を受けて「カツマー」になりつつありました。
そんなタイミングのニュースだったので、夫が休憩中にわざわざ「勝間さんがネットで話題になってるよ」と知らせてきたほど。

ご自身のプライベートを告白する事は勇気が必要だったと記事でも仰っているが、本当にそうだったと思う。
「私が好きな人と好きなように過ごして何が悪いのよ」と思っていても、告白する事で他人からの接し方が変わるかもしれない、覚悟はしていても傷付く言葉をかけられるかもしれない、そういった言葉や態度が自分の知らない所で自分の大切な人を傷つけてしまうかもしれない、等と考えると疑惑を持たれたとしてもわざわざ公表しなくていいのでは、と考えた事もあったのではないだろうか。
それでも勝間さんは公表した。自分を勇気づけてくれた人たちのように、自分の行動が誰かの勇気につながればという思いから。
勝間さんの意図の通り、いろんな人の考えるきっかけになって誰かの勇気に繋がったらいいと思う。

私が同性愛に対して考えるきっかけになったのは、高校生の時に出会った一人の男の子だった。一学年下だった彼は皆で放課後を一緒に過ごす仲間の一人で、その中でも私たちは特に気が合って二人でいる時間も多くなった。
彼から同性(男性)が好きかもしれない、と告白を受けたのは、知り合ってしばらく経ってからの事だったと記憶している。もともと中性的な彼の告白に私はさして驚きはせず、むしろ腑に落ちる事の方が多かった。彼の告白をすんなり受け入れ、私は彼の唯一の恋愛相談相手になった。けれど、この時私は彼の事を、正確には彼の苦悩や葛藤は一つも理解していなかったと思う。

2人だけでコイバナで盛り上がっているうちはよかった。今日は何回目が合ったとか会話したとか、相手とどんなデートがしたいと妄想してはしゃいでいる内はそれでよかった。次第に彼は自分の気持ちを抑えきれず、告白をしたいと言い出した。うまくいく可能性が低い事はわかっているけど、気持ちを発散したい。もしかしたら、0.001%でも可能性はあるかもしれない、と。
真剣に相談する彼に、私はどうアドバイスしたらいいのかわからなかった。異性への告白だったら、頑張れ!とか当たって砕けろ!とか言えたかもしれない。でも、それは言えなかった。告白した相手が、彼の事をイロモノ扱いして同級生に広めるかもしれない。同性に恋愛対象として見られている事にショックを受けるかもしれない。そして、彼にひどいことを言ってしまうかもしれない。私はとにかく、自分の大切な友人が彼自身の潜在的素質が原因で傷付く事が怖かった。
好きな人に好きと伝える、そんな当たり前の事が当たり前に出来ない。彼は何か意図があって男性を好きになった訳ではなく、そういう性質で、その自分の素直な気持ちに気付いただけなのに。その時、私は初めて彼が抱えている、そしてきっとずっと抱える事になるだろう苦悩や葛藤の辛さを理解したのだった。

結局、彼は私が的確なアドバイスを見付ける前に好きな人に告白をした。結果はノーだったが、相手の少年もとても理解のある人で、彼にひどい言葉もかけなかったし、同級生に広めたり、彼が学校に行きにくくなるような事にはしなかった。
初の失恋を経験は、彼に自分の性的嗜好をはっきりと認識させるきっかけになったのだと思う。それから彼は自分の生き方を悩み、同じ気持ちを理解しあえる相手を求めて色々なコミュニティに参加したりし始めていた。アンダーグラウンドな世界に足を運び、心許せる人との出会いもあったけれど、怖い経験もして挫けそうにもなっていた。
私は話を聞く事しか出来なかった。彼の他に同じような人は身近にいなかったし、私自身が同性愛の友人がいる事を自分の周囲の人たちに言えず、彼へのアドバイスを相談する事も出来なかった。当時、レインボーパレードのような参加しやすいイベントがあれば、もしくは私が知っていたら、一緒に参加してみようと行動が出来たかもしれない。10年くらい前の事だけど、当時はそういった情報はまだまだ少なく、その環境で私は彼の為に立ち上がる事が出来なかったのだ。

お互いに大学に入って地元を離れた事もあり、次第に疎遠になってしまったが、私は今でもセクシャルマイノリティの話題になると彼の事や、彼と話したたくさんの事を思い出す。この10年で社会は変わって、少しずつだけど彼らが自分に正直に生きる環境が作られつつあると感じている。それでもまだまだ、自分の気持ちを正直に表現する事は勇気がいる事なんだ。勝間さんの告白の記事を読んで改めて思った。
あらゆる人が自分に正直に生きられるように、もっともっと少しずつ色々な人の考え方が変わっていけばいい。私もせめて私の周囲にいる人達くらいは、正直に生きられるような環境だったり雰囲気を持てる人間になれたらいいなと思う。
そんな事を、勝間さんの記事を読んで考えさせられた。

2018年5月25日金曜日

お腹と足の話

31歳。妊娠しました。
まもなく18週。5ヶ月目真っ最中です。

もちろん妊娠は5ヶ月前に発覚していたのだけど、家族以外の人々にいつ・どのように伝えるのがわからず直接会う人や、言わなきゃいけない状況になった場合だけさらっと伝えて5ヶ月を過ごしました。
この「言わなきゃいけない状況」の見極めが難しかった。

そもそも私は今、生まれた土地でも学生時代を過ごした場所でも無く夫の仕事にくっ付いてきただけの縁も馴染みも無い土地に住んでいて、夫と職場の人を除くと会おうと思って時間と労力を割かないと会えない(もちろん金銭的負担も相当大きい)。
そんな中でも、旅行がてら会いに来てくれる友人や、次地元に帰ってくれるタイミングを探ってくれる友人には、予定がドタキャンになるかもしれないという可能性も含めて妊娠を報告できるけれど、そうじゃない人達にはどう伝えていいのかわからなかった。

というのも、妊娠ってそれだけ悩むほどデリケートな話題だと思うから。
特に初期は、妊娠が継続できる確率がまだまだ不安定でそれに伴って自分の精神状況も非常に不安定だった。中期に入り、流産の確率が統計上は低くなっても、安全に生まれる可能性は100%ではない。
更に、妊娠報告は受け手側の気持ちも様々だと思う。私自身、20代後半頃から同世代の結婚・妊娠報告を聞くと多少なりとも焦りを感じた。誰にというわけでは無いが「あなたはどうするつもりなの?」と問われているような気持にもなった。プロポーズされた報告や引っ越しした報告とは訳が違う。

そんな訳でしばらくは言わなきゃいけない状況に陥らない場合は公表していなかったが、体調が安定するに伴って自分のメンタルが持たなくなってきた。
言わなきゃいけない状況ではない場合は妊娠の報告をせずにラインのやり取りをする。インスタやコメントでやり取りをする。当たり障りない返信をする。私にとって今一番のトピックは妊娠で、食事・睡眠・外出といった基本的生活をするにも、先の計画を立てるにも、キャリアプランを考えるにも出産と子供の事は切り離せないのに、私はそれを相手に伝えていない。嘘をついているような、相手を騙しているような気持になり辛くなった。(本当は嘘をついていない。「最近どう?」と聞かれたら「妊娠した」と返答していた気がする。でもそもそも「最近どう?」ってあんまり聞かれないし聞かない。)

うすうす感づいていたけど、私は自分の事を知ってほしいかまってちゃんだった。言い訳をすると、かまってくれなくてもいいけど、知っててほしい、頭の隅に置いておいてほしい、くらいに。
それに加えて、隠し事が苦手だ。ASDの特徴でもあるけど、空気が読めない事に加えていっていい事悪い事の分別もつかない。自分が考えている事は何かに包んだりせずにそのまま伝えたい。

モヤモヤした挙句、先日安定期に入ったタイミングでインスタとフェイスブックで妊娠の報告をした。読みたくない人はすぐに画面を閉じられるし、コメントをしなくてもいい自由度が個別のやり取りよりいいかなと思い、SNSを使った。一方で個別にやり取りをする程ではないけど繋がってる人達への近況報告にもなるかなと思った。公開すると、いくつかのお祝いメッセージをいただいた。優しさが嬉しいと同時にくすぐったくもなって、やっぱり報告しなきゃよかったかな、とか面倒くさくても個別に報告すべきだったかな、とか面倒くさい感情も沸いたけど、一番は数ヶ月の悩みの種が無くなって、スッキリした。
やっぱり私は知ってほしがりちゃんなんだな。

ここ一ヶ月、ブログを開く気が起きなかったのも同じ思考からだった。言えないこと・書けないことがあるだけで、何を書いたらいいのかわからなくなる。書ける事だけ書く、というのは私にとってあまりに器用で難易度の高い事だった。
でもそのストレスから解放された私は、これからは包み隠さず思いのままに妊娠生活の事を書いていこうと思う。というのも、私自身が妊活をしていて、そして人に公表しにく妊娠初期のデリケートな時期に同じような状況の人が書いた記事を片っ端から読んで共感する事で自分の気持ちを落ち着かせていたから。知ってほしがりちゃんな上に知りたがりちゃんでもあるのだった。
知りたがりちゃんから少しばかりでも誰かの活力になればという気持ちも込めて、これまでの5ヶ月とこれから産むまでの記録を綴っていこうと思う。

蛇足だけど、妊娠して改めて気付いたことがある。
私の足首は象の足首にそっくりだった。甲が高くて幅が広い。足首が太い(きゅっと締まっていない)ので、ぼてっとしているのだった。
気付いたのは来月結婚式に参列するための靴を買った時。妊娠6ヶ月に入り体も重くなってくるので、お呼ばれ服に似合うけどヒールが低い靴を買いに行った時だった。デパートの靴売り場にも該当する素敵な靴は沢山あったけど、試着するとどれもこれも似合っていない。太い足首から続く傾斜のある足の存在感が強く、ヒールの無い靴がかすんで見えるのだった。足首や甲にリボンや紐の装飾がある靴は、太さが際立って見える。一言で言うとボテっとしていた。「これ、何かに似ているな」と鏡越しに映した横側からの自分の足首~足を見て思い出したのは、象の足だった。
そっか、私の足は象の足だったんだ。これまでスニーカーやブーツや、おしゃれをしなきゃいけない時は頑張ってそこそこの高さのヒールをはいていたから気付かなかったけど。肉付きの問題かと思って骨格を触ってみたりしたけど、体のつくりの問題でダイエットでカバーできる範囲ではないような気がする。
靴選びは苦戦したけど、2センチヒールのオシャレ靴をどうにか見付ける事が出来た。
が、子供の自分の足で立って歩けるようになるまでしばらくはヒールは封印する事になりそうだ。妊娠して直視した自分の足首の太さ。親が子供に教えてもらうことがたくさんあるとは言うが、産まれる前からの話らしい。お腹の中の私の子よ、ありがとう。

2018年4月12日木曜日

毒親とはちょっと違うんだけど

今日は8ヶ月通った病院の最後の診察だった。
職場復帰をしてからも月1ペースで通い続けていたが、心穏やかに過ごせるようになってきたし、もともと薬を処方されていなかったので前回の診察の時に「問題なければ次回で終わりで」と医師から提案されており、予定通り終了となった。

最後の診察で、私がアドバイスを求めたのは両親の事だった。
母とは半年以上会っていないがラインでのやり取りがあり、その中で最近傷付く発言があり、それ以来母親のアカウントをブロックしていたのだった。
嫌だからってブロックなんて子供っぽいし、既読スルーとか未読スルーすれば済むのに、と自分で思いながらも、親にとって私は子供だし(屁理屈だけど)実際ブロックしてから気持ちがモヤモヤする事がなくなった。スルーとブロックは全然違う。急用があるなら電話してくればいい。

とはいえ、ブロックしてそれで縁を切って終了!とはなれなかった。親子だからだ。
私の両親は、私が思い出しても他人から見ても私にたっぷりの愛情を注いでくれた。父は昼夜関係なく働き、進学や引っ越しや結婚といった大金が必要な時は惜しみなく援助してくれたし、専業主婦の母はとにかく私のことを最優先して沢山の時間や労力を注いでくれた。おかげで私は何不自由なく、我慢や飢えを知らずに大人になった。
それでも、自分の発達障害や鬱の事を考えるたびに、私は両親への複雑な気持ちを抱えていた。両親は愛情を注いでくれたけれど、私には受け皿が無かった、私が欲しい愛情とは違った、と表現するとしっくりくる。私の為を考えるばかりに意見が押しつけがちになる両親に対して、自分の考えをまとめるのに時間がかかる私はちゃんと反論する事が出来ず、泣いたり喚いたりする事しかできなかった。細かい「ああしてほしかった」という事はたくさんあるけれど、一番は私の話をもっと聞いてほしかった。時間はかかったかもしれないけれど、自分の言葉で話すまで聞いていてほしかった。
親に素直になれなかったモヤモヤを30歳を過ぎて夫が解消してくれている点が沢山あり、夫はそれを悩みながらも本を読んで知識をつけたり努力をしてくれている。妻が私でなければしなくて済んだ負担を沢山かけてしまっている。なのに、遺伝上私を構成する要素である親が理解せず、大した歩み寄りの努力もしていない(ように見える)事が腹立たしかった。
夫が私の両親に病気の事を伝えた時(私は不在)、母は小さい頃から本当に大変な子だったんですとめそめそ泣き、父はこんなに理解のある男性と巡り合えて本当に良かった、本当にありがとう。今後ともどうぞよろしくと言って頭を下げたらしい。が、いやいや。夫に丸投げしてハイ終わりじゃないでしょ!夫の負担は誰のせいだと思っているの?8割は私自身でも残りの2割はあなた達(父母)でしょ?(夫は0割でしょ?)というのが私の感想だった。(そう言って、報告してくれた夫を前にひと暴れした。大迷惑。)

そんなような事を医師に伝えると、いつも通りごもっともな返答をくださった。
・親子だからといって理解してもらえると思わないほうがいい。
・私自身の感情をそのまま伝えると、親は自分の考え方・子育てを否定されたと感じて拒絶される可能性もあるので、伝えずに済むのであれば伝えないままでいるのも一つの解決策。特に私の場合、親とは距離を置いた方がよさそう。
・理解しあう為に、親と共に精神科を受信して親子関係を修復する治療法もあるが、それ自体を理解しない親も多いのでそれを選択するかは考えたほうが良い。
・歩み寄る方法の一つとして、子育てや介護といった同じ目的の為の協力者としてであれば、結果的に理解しあえるかも。
・協力者として近くで過ごす場合も、親として甘える存在というよりは効率よく物事を解決するために自分の苦手な事を助けてもらう存在として考えたほうが良い(ビジネスライクに)。目的が達成されたり、助けが不要に感じたらきれいさっぱり離れればよい。

説明の折に「そもそも理解されていたら今の状態になっていなかったから」とか「親達は受けてきた教育や社会の概念が違うから」とか、ハッキリぶった切ってくれた事もありがたかった。(やはり私ははっきり言ってもらった方が納得できる。)その上で「親御さんもきっと頑張ってこられたと思うから、そこは認めてあげましょう」と第三者から言われたのは初めてで、今までのモヤモヤがすっと消えたようにすっきりした。

なぜって親子関係のモヤモヤって、友人や同僚といった第三者には非常に伝えにくい。そもそも親に対して無条件の信頼を寄せている人にはなかなか理解してもらえないし、私の親の愛情深さを知っている人は「きっと分かり合えるよ」と(きっと私の為を思って)楽観的なコメントで終わらせてしまう。育児放棄や虐待、両親間のトラブルなど話し相手が想像しやすい出来事があった訳でないし、親に感謝している事も沢山あるのでそもそも説明もしにくく私自身が最後まで思いの丈を話せた経験もあまりない。私自身も親と何となく距離をおいてうやむやにしていた。発達障害や鬱の診断が無ければ、うやむやのままいられたと思う。

第三者として、精神科の専門医として医師のアドバイスは的確で、おかげで最後の診察でも私達夫婦はスッキリして気持ちよく終えることが出来た。前からこの医師に信頼を寄せている夫は「(私の親の事を)知っているかのようなコメントですごい」と感動していた。仕舞には「先生のアドバイスの引き出し、まだまだありそうだな~もっと引き出したいな~」と主旨の逸れた発言もしていたが、毎回待合室が大混雑の病院に、好奇心だけで通うのは気が引けるのでご提案通り通院終了とさせて頂いた。
最後にも「何かあったらいつでも来てくださいね」と言ってくれた。

会計を待っている間、8ヶ月前の初診の自分を思い出した。
ずっと下を向いていて症状を伝える為に口を開くと涙が止まらなかった。そもそも病院への予約電話は途中で電話を切ったし(ちなみにそれ以来病院への予約電話は出来ないまま)診察を待つ間に「私なんかが診察受けちゃダメだ」と自虐的になって帰ろうとしたこともあった。夫が外に電話を掛けにいっている間に自分の順番になり、夫が横にいないことにパニックになった事もあった。
それに比べて、今日の私は元気だ。待合室ではクイズアプリに不正解を出す夫に憎まれ口をたたき、会計待ちの間はその後に行く事を決めていたラーメン屋で何を食べるか考えてお腹が鳴るのを必死に堪えていた。
私、元気になったかも。それもこれも先生のおかげです。あと、忙しいのに診察に毎回付き合ってくれた夫も。感謝感謝。

2018年4月4日水曜日

女である自分

10代の頃、私は女子特有のグループ付き合いが苦手で事あるごとに男に生まれ変わりたいと思っていた。
かといって、漫画に登場するボーイッシュな子のように男の子っぽい恰好をしたり、スポーツが得意だったわけでもない。思った事をそのまま言うと次の日から仲間外れにされたり、興味のない誰かの片思いに協力するという口実で貴重な休日に遊びに付き合わされる事が嫌だった。自分の唯一の趣味である好きなゲームや音楽の話を女子のグループ内ですると白けてしまうのも苦痛だった(それは私の話がマニアックだったからなのだけれど)。その時に話し相手になるのは男子だけだったから、ただそれが楽しくて男子になりたいと思っていただけだった。男子には男子の厳しい競争社会がある事は気付いていなかった。

大人に近づくにつれて、(あたりまえだけど)男に生まれ変われない事も女子ならではうま味がある事(女子大生というだけで奢ってもらえる回数がぐっと増えた)も気付き始めて、学生生活も大学になると面倒くさいグループから離脱しても大した痛手は無く、女である自分を否定する事は無くなっていった。そしていつの間にか、女性が主役である結婚式というライフイベントに心奪われ、一日の大半を女性と関わる事に費やすウエディングプランナーの仕事をした。
プランナーの経験を通して更に興味が深まったのは、ライフスタイルによって変化する女性の価値観だった。本能的に競争して能動的に働くことがインプットされている男性以上に、女性の心理や思考は奥深い。まだぼんやりとしているけれど、女性が輝ける社会が私の理想であるし、その為に貢献できる仕事がこれから出来たらいいなと考えている。

女性である事を否定することから始まり受け入れ魅了されてきた私の読書遍歴を振り返ってみたら、やっぱり女性作家が中心だった。

それまで漫画や絵本や子供向け小説ばかり読んでいた私がエッセイを初めて読み漁ったのがさくらももこさんだった。幼少期にちびまる子ちゃんが大好きだった私は、母が録画してくれたまるちゃんを台詞を覚えられるほど繰り返し見た。「どうせ私なんて」という卑屈な精神や何かの近道を探ろうとする怠け癖や、それでも家族や友達を見捨てることはしない優しさや、いろんな口癖をまるちゃんから影響された。
さくらももこさんの実体験に基づいたまるちゃんのストーリーのより踏み込んだ内容が書いてあるエッセイを読みふけって、文字だけでこんなに感情が揺さぶられるんだと感動した事を覚えている。

大学生の頃は、とにかく色んな世界観を知りたくて本屋に山積みにされている本を文庫を中心に読んでいった。東野圭吾さんや伊坂幸太郎さんの作品が大好きで、特に伊坂さんの独特の思想には思春期の不安定な心境が何度も救われた。
そのころにデビューした湊かなえさんは処女作の「告白」から新刊が出る度に必ず買うほど大好きだし、小川糸さん、有川浩さんの本も今も新しい作品を見掛けるとつい手に取ってしまう。

大学を卒業して、林真理子さんの小説を読んで現実社会によくある問題の切り取り方がすごく面白くて作者にも強烈に興味を持った。林真理子さんの出身地である山梨県に住んでいた親近感もあり、エッセイを何冊か読んだ。自分がブスで不器用なことを嘆いても仕方ない。それでも欲しい物を手に入れる為に努力するのよ!という姿勢がまぶしくて、励まされて、なにくそ精神のエネルギーを沢山もらった。
最近出された本でも、今はSNSで誰でも好きなように意見が出来るけど、ほとんどの人が匿名ですぐに逃げられる。けれど私達作家は実名で顔も出したうえで意見をしているの。だから何か言うとすぐにネットで叩く人や炎上させる人がいるけど、こっちは死ぬ気で言ってるのよ!言うからには根拠がちゃんとあるのよ!というような事を冒頭で言っていて、本屋で立ち読みをしながら身震いがした。その日は荷物が多くて買い逃してしまったけれど、タイトルも控えなかったので見つけられず買っておけばよかったと猛烈に後悔している。やっぱり本も一期一会なんだよなぁ。私にとって林真理子さんは女性が女性として生きるための活力をくれる人だ。姿や名前を見掛けるたびに、心の中で「真理子さんがおっしゃってる!」と最上級の敬意を示している。

ちなみに社会人になってから自己啓発本やビジネス本を意識して読むようにしたけれど、ビジネス本でも特に会社での自分の在り方や仕事の仕方の本になると、著者が女性の方が断然共感できた。このあたりで改めて、男と女は根本的に違うんだと認識するようになった。

最近出会って大好きなのは益田ミリさん。初体験は旅行エッセイだったけど、それからコミックエッセイも見掛けるとすぐに手に取って読んでいる。作家という能動的な仕事をしているのに文章からうかがえる著者自身や登場人物は基本的に内向的で、それが私にとってとても共感出来て読みやすかった。
人からの目線とか気にしちゃうけど、結局は自分が楽しいとか嬉しいとか居心地いいとか、そういうことが大事なんだよな、とミリさんの本を読んで感じた。無理しないで生きる事が大事。でも、無理しない事は何も始めない事や挑戦しない事とはイコールではない。無理しない範囲で、ちょっとずつ始めていけばいいんだ、とミリさんの本の影響で最近考えるようになった。

最近の私は、女性の特権である母になる事を望み、その為にどうしたらいいか、そして自分が母になっても一人の女性として活き活きするにはどうしたらいいのんだろう?という事ばかりを考えている。その時に浮かぶのはこれまで出会った女性だったり、女性が書いた文章だったり、とにかく女性発信のものだった。色々考える内に「そういえば私、女が嫌い!女である自分が嫌だ!とずっと思ってたよなー」とふと思い出した。そして、そう言いながら女性発信の物ばかり求めていたことも。今もだけれど、自分の事って本当に見えていない、わかっていないなと思ったのでした。

2018年3月25日日曜日

季節のかわりめ

気が付いたら3月もあと1週間。うっかり3月の更新回数0になるところだった。何を競っているわけではないけれど、1月に始めたブログが3月に既に更新しなくなるってどうなの?と思うので、頭の中にある事をダラダラ。

【考えるきっかけ】
3ヶ月間毎週楽しみに見ていたドラマが終わってしまった。『アンナチュラル』『BG』『99.9%』『隣の家族は青く見える』を最後まで楽しんだ。(ちなみに『君が心に棲みついた』は登場人物の心の病み具合に引っ張られそうになり、途中で離脱。)『アンナチュラル』はミステリー好きの夫も気に入っていた。見終わった後にお互いに見つけた伏線を言い合うのが面白かった。
それ以上に記憶に残っているのが『隣の家族は青く見える』だった。松山ケンイチと深田恭子という、アラサーの私には10代の頃にいっぱいドキドキさせられた二人が夫婦役で、妊活に励んでいく。テーマが妊活だけだと視聴者が絞られるからなのか、二人が住むコーポラティブハウスに住む他の家族たちも事実婚、お受験ママ、同性愛など背景が込み入っていて、見ている側に色々なテーマを投げかけていた。
このドラマも毎週夫婦で見て、見終わるとドラマで語られていたテーマについて2人で話をした。ネットで目にした関連記事でも話題になっていたが、不妊治療の様子がとてもリアルに細かく映されていた。前半では超混雑する産婦人科の待合室や、その中で他人事のように振る舞う夫達など…ここまで映しちゃうの?という場面がたくさんあった。これは後で知ったことだが、ドラマの医療監修をされた産婦人科の医師が製作陣にドラマではなく教育番組として知識をきちんと伝えてほしい、という思いで不妊治療の一般的な流れや用語などをドラマに組み込んでもらっていたらしい。そのリアルさが、まさに妊活なうな私たち夫婦にはグサグサ刺さったのだった。
印象に残っているシーンは沢山あるのだが、一つ昔の自分を見ているようでいたたまれなくなったシーンが後半の放送回であった。不妊治療に苦戦する深キョン演じる奈々が意を決して職場の人たちに不妊治療をしていることを宣言する。その為に体力を使う仕事のシフトを変わってもらうなど迷惑をかけてしまうがよろしくお願いします、と。上司の男性はもっと早く相談してくれてよかったのに、と快諾するが、若い女性スタッフは微妙な雰囲気。そして次の回で女性スタッフ同士で、不満を漏らす。不妊治療とか妊娠っていうと何でも許される傾向があるよね、と。そばで聞いていた上司にお互い様だからそういう風に言ってはいけないと指摘されて場面は展開するのだが、私は女性スタッフ達がかつての自分と重なって見えていたたまれなくなった。口にはしなくても同じような事を思っていたことが私にもあった。自分が仕事最優先で働いていた頃、同僚の妊娠による産休や結婚による退職などがあると、自分の仕事が余計に増える事が気に入らなかった。不妊治療中の友人と連絡が途絶えがちになり、なぜラインの返信すら出来ないのか理解できず、遊んでくれなくてつまらないと思い、彼女が妊娠してからもこちらから進んで連絡を取らなくなった。今思い出すと、なんて独りよがりで想像力の無い発想だったのだろうと恥ずかしくなる。思っていただけで口にしなかったことだけがせめてもの救いだったと思う。
でも、それくらい私は知らなかったのだ。妊娠・出産がどれだけ奇跡的な事なのか、不妊治療がいかに大変で先が見えない不安の中に置かれるのか、それらはどちらもお金で買えるものではなく、仕事の分量とか友達とのラインのやり取りと比較できることではないという事を。知らないから想像できず、何の悪気もなく思っていた。仕事の負荷が掛かる事への不満に関しては、当時の職場の環境も影響していたと思う。数年前の話だけれど、まだまだ色々な制度が整っておらず、人員に対して業務過多で職場全体が殺伐としていた。その中で私自身が謀殺されていたことも起因していると思う。
だから私はドラマを見て、女性スタッフに自分を重ねて恥ずかしく思う一方で、彼女たちを叱る上司に対して「そうぼやく原因は職場環境にもあるんじゃないの?」と思ってしまった。スタッフが心に余裕がない発言をしてしまう原因を考えるのが管理職の仕事じゃないの?と。
もし当時の私がこのドラマを見ていたら、考え方が変わるきっかけにはなっていたと思う。そして今、ドラマを見て過去の自分を振り返ることができてよかったと思う。いいドラマに出会えてよかった。

【ちょっとずつ春】
3月も後半になり、私が住む本州最北端もちょっとずつ春らしくなってきた。桜や新緑はまだだけど、朝寒さで目を覚ますことはなくなったし、日中に散歩に出掛けられる気候になってきた。歩き好きには暖かくなってきたのはありがたい事なのだけど、私は春が苦手だ。学生時代、春は年度が変わって環境が変わる季節で、変化への対応が苦手な私は人間関係で余計な神経を使い疲れてどんどん内向きになっていった。仲の良かった友人が新しいコミュニティで楽しくやっているかと思うと連絡も出来なくなったり、とにかく春は苦い思い出ばかりがある。さすがに学校を卒業してしばらく経った今はそれほど神経質にならないけど、春特有の新年度とか新しいことを始めよう的な明るく前向き度100%の風潮はやっぱり苦手。そういう話題が落ち着く5月くらいに早くなってほしいなぁと思う今日このごろ。そのころにはきっと内向き度も少し減るだろう。

なんかいろいろ書こうと思ってたのにドラマの話題で白熱したのでエネルギー切れ。もっと書きたい事あったはずなんだけどな。そうなる前にもうちょっと軽いスタンスでこまごまと書けばいいんじゃないかと思うんだけどね。

2018年2月23日金曜日

はじまりとおわりと

前回の投稿から3週間以上空いてしまった。
2月に入ってからそれまでの数ヶ月と生活リズムが一変。
早く日常を取り戻すためにSNSを見る頻度を意識的に減らしてる内に、何かを投稿したい、伝えたい、という気持ちも薄れてきた。
ネットでのバーチャルな世界ではなく現実での生活に向き合っている、という意味では良い傾向なのだけど、それはそれで私はどんどん内向きになっていく。
時々こうして、自分の本音とか考えとか日常のとりとめのない事を吐き出したい。
そうする事でまた現実社会で適切な立ち振る舞いを出来ると思う。
つくづく面倒くさい人間だな、私って、と思う。

【4ヶ月ぶりの社会復帰】
2月から職場に復帰した。働くのは4ヶ月ぶりだ。
復帰にあたって長い時間をかけて不安な点を事前に解消していたこともあり、予想以上にスムーズに復帰して働いている。
嬉しかったのは、仕事に復帰して最初の1週間ほど会う人が皆「おかえりなさい」とか「久しぶりだね」と明るく迎えてくれた事だった。
休職前の絶不調な時は、会社全体のアットホームな雰囲気が内向きで排他的に思えて嫌だったが、そのアットホームさが私を職場に戻りやすくしてくれた。復帰して前よりは冷静に考えられる最近も、内向きさゆえの問題を感じることはあるけれど、その中でどう考え行動するかは結局自分次第だ、と考えられるようになった。そんな風に前向きに考えられるようになった事に自分のメンタルの回復を感じながら、嫌なこともあるけど毎日健全に働いている。

【やめたこと】
休職中、何か前向きなことがしたくて始めたスカイプ英会話をやめた。
理由は単純に時間が無くなかったからだ。
仕事をしていると、通勤や準備の時間も含めると一日の半分近くが仕事の為に使われる。
あと半分の内に睡眠や食事や家族とのコミュニケーションや自分の好きなことの為に使うと考えた時に、私の中で英会話の優先順位は低かった。
やめると決めたものの、月の会費がかかるギリギリまで迷って退会手続きを始めると「本当にいいんですか?」「もう少し安いコースに変更しては?」「今までの記録はなくなりますよ」などとやめさせない為の宣伝文句が私に迫ってきて、決断をグラつかせた。
そんなありきたりな広告文句で揺らいでしまう意思が弱い私に夫は間髪入れず「やめても後悔しないよ」とバッサリ言い放った。
夫の一言で手続きを続けて辞めてから数日、今のところ1ミリも後悔していない。
英会話をしていた数ヶ月間、日本人よりフィリピン人の講師と話す時間の方が長かったと思う。おかげで英語力は上達…はしていない。特に。多分それもやめようと思った理由の一つだと思う。
次に言語を集中的に学ぶときは、試験とか資格とか結果が出る目標を設定してそのために取り組もうと思う。その方が私は頑張るだろう、というのがスカイプ英会話をやって学んだことだ。それが分かっただけでも十分だろう。

【妊活のこと】
「今年は妊活の年にする」と人に会うたびに言っている。宣言しつつも何をどう始めたらいいのかよくわからなかった。すると、有難いことに色々教えてくれる人が周りにたくさんいた。
おすすめのアプリを教えてくれたり、使わなくなった妊活グッズを譲ってくれたり。ありがたやありがたや。
一人っ子の私は、幼少期から親をはじめ周りの大人に甘やかされた環境にいて、何か初めてのことをするとなると、全部周りの大人たちが段取りをしてくれた。(おかげで年齢や経験値の割に知らないことが結構多い。)それに察する能力が極めて低いので、教えてもらわないと何をしたらいいのかわからない。
だから、妊活経験者の知り合いが「お節介かもしれないけど」と言いつつあれこれ教えてくれたり世話を焼いてくれるのが非常にありがたく、心地よい。それをお節介というならば、お節介大歓迎!
そんな訳で、今は薦めてもらったアプリといただいた妊活本を熟読しながら、やるべきことを書き出してひたすら情報収集している今日この頃。もう少し自己顕示欲が沸いてきたら、妊活アカウントでも作ろうかな。


今は目の前の仕事や自分の事といった、現実社会に向き合う時間だと思いつつもやっぱり楽しい計画も好き。
有難いことに3月、4月と旅行の計画が持ち上がってるのが楽しみで仕方ない。5月はまだ空いてるから何か考えようとソワソワしている。楽しみにもお金が必要。お仕事頑張ろう。

2018年1月29日月曜日

新潟・新潟駅~駅直結のお土産屋、ぽんしゅ館は新潟愛に溢れてた~

2017年1月、新潟市でお店を始めた友人家族を訪ねた際に
駅前の面白い場所、という事でぽんしゅ館を教えてもらった。
調べてみると、駅直結ではあるが少し離れてそう。
越後湯沢に出来た時に話題になったそうで、テレビで見たような気もしなくもない。
謳い文句は「越後のお酒ミュージアム」。
利き酒も出来るらしいが、お酒があまり飲めない私はさほどテンションは上がらず…
とはいえせっかく新潟まで来たし、話のネタと一緒に土産の日本酒を買おうと思い、
帰りの新幹線までの待ち時間に立ち寄る事にした。

新幹線の出発まで約1時間ほど。ちょっと立ち寄ったらカフェに移動して時間を潰そう
と思っていたが、足を踏み入れていると大きな見当違い。
そこは新潟県の美味しい物が詰め込まれたレジャー施設だった。

一言で表せば、新潟の美味しい物が沢山揃っているお土産屋さん、なのだが
店内は、お店側の「買ってもらいたい」そのために新潟のいい物を知ってもらいたい
という気持ちに溢れていて、訪れた人が買いたい!と思う仕掛けが随所に施されていた。

まず驚いたのは、試飲・試食の充実ぶりだ。
ぽんしゅ館の一番の売りは越後のすべての酒蔵のお酒が試飲できる
『利き酒ミュージアム 唎き酒番所』である。


コインを買って、好きなお酒をお猪口一杯分飲むことができる。
お酒のアテの塩も置いてあり、気持ちよく飲み比べられるよう準備されている。


お酒が苦手な私は見学程度に素通りしただけだが、
店内でこのコーナーが一番賑わっており、スタッフも熱心に解説をしていた。

味を確認しながら選んで買うって、とても楽しい。
美味しいとか甘いとか辛いとか、根拠を持って買うと、帰ってから飲んだり食べたりするのがより楽しくなると思う。
人にあげる時も感想やうんちくを添えたくなるし、貰った方も嬉しさがアップすると思う。

酒器コーナーも充実

ぽんしゅ館の凄い所は、味を確認しながら選べる楽しさを沢山用意してる事だ。
酒に留まらず、味噌・醤油も味見が出来る。

匂い・色・味の比較ができる
動画から切り取ったので画質悪い
なぜ醤油を厳選しないの?と新しい価値観を提案

私は醤油は日常的に使うし、塩分が多いとか味に違いがある事は知っているものの
比較した事は無いし、違いを形容する事が出来ない。
(刺身用醤油として売られている物を買って使って、あー確かに、と思う程度である。)
そんな醤油素人でもぽんしゅ館で並んでいる醤油を味見すると、味の違いがある事がわかり
比較していくと、好き嫌いとかどの料理に合いそうとかわかってくるから面白い。
味見をした結果、当然のように気に入った醤油を購入した。

味噌コーナー。ご遠慮せずに、という案内文が優しい。
ぽんしゅ館の楽しく買い物をさせる工夫は試飲だけではない。
数多ある商品の比較や解説がわかりやすく紹介されていた。

例えば、旅先でついつい買ってしまうレトルトカレー。
お土産屋で働いていた時、若者旅行者のお土産カゴで見かける事が多かった。
自分用に買ったり、1人暮らしの友人や恋人に買っていくのだろう。
私も独身の時は良く貰っていたし、自分も買っていたからその便利さ、わかる。

レトルトカレーコーナーを作るお店は時々見掛けるが、
ぽんしゅ館ではただ並べるだけでは無い工夫がされていた。

ご当地レトルトカレー一覧。種類の多さにも驚き。

ご当地と言ってもレトルトカレーだし、胸の内では過度な期待はしておらず
パッケージやネーミングだけで選ぶ事が多いのだが、
こうやって並べられると見た目を比較したりして、楽しくなってつい買ってしまう。

日本酒コーナーの近くにあるおつまみコーナーにも同じような看板が。

おつまみコーナーには缶つまの一覧も。
缶つまは新潟の特産では無いはずなのでメーカーが製作したものだと思うが
よく知る缶つまだってこうして中身を並べて見せられると、
同行者とあれこれ好みを言い合った後に買ってしまうだろう。

ここまでの工夫ポイントでも十分好奇心が掻き立てられるのだが、
ぽんしゅ館は小さい所も工夫されていた。
商品ごとのポップが商品愛に溢れている。

例えば日本酒。『唎き酒番所』を出ると壁一面にエリアごとに分けられて並んでいて、
飲み口やアルコール度数、商品の特徴がポップに熱く書かれている。
スタッフとの会話が苦手な人もいるし、自分は飲めないけど「辛口買ってきて」と
お土産をリクエストされる場合もあるので、文字の説明も嬉しい。

夫の地元である上越のコーナー。文章量がすごい。
商品ごとの紹介だけでなく、どこで作られたとか、どんな想いを込めたとか
その時私が手に取るまでのストーリーも伝わってくる。
生まれや育ちがわかると親近感を抱くのは人間でも物でも一緒で、
私のような感動屋はこの手のストーリーに弱い。つい買いたくなってしまう。

新潟は広い。エリアごとに食の得意も異なる。
複数のワイナリーのワインを一緒に紹介。
これを作るのも容易ではないだろう。

更に、店内全体のポップの文字、陳列台、内装が統一されている事で、
買いたいテンションを下げずに見て回りたくなるよう空間も演出されていた。
多種多様なメーカーの商品を並べるお土産屋で、
統一感のある空間を作る事は色々なハードルがあってなかなか難しい。
ぽんしゅ館の成り立ちは詳しく調べていないけど、
スタッフの熱意や生産者の理解や協力でハードルを乗り越えて
やりきっている事で、訪れた人の購買意欲を掻き立てていると感じた。

コシヒカリ3合分。パッケージも並べ方も可愛い。
新潟土産の定番の柿ピー。
お店にマッチして並んでる

私は結局、新幹線が出発する時間のギリギリまでぽんしゅ館にいた。
つい買いたくなる工夫だらけの空間の中でどうにか自分を制して
スーツケースの余白に収められる分のお土産を買った。
私の物欲の根源である母と一緒に来ていたら、大変な量になっていただろう。

新潟駅から外に出ないで行ける通路はあるものの、
初めて訪れた者には気付きにくい場所にある事が勿体ない。
特に私が訪れた時は駅の工事をしていて、ぽんしゅ館までの道案内が見付けにくかった。

私は新潟駅を訪れる旅行者には全員、ぽんしゅ館をお勧めしたい。
もちろん駅構内にもお土産屋は沢山あるが、楽しく買える度が全く違う。
自分用でも配る用でも、買って帰るなら楽しく買えた物の方がいいと思う。
貰う方だって、うんちくや買った理由が一言添えられてたらより嬉しくなると思うから。

新潟のお米で作った爆弾おにぎり。食べたかったけど胃袋に余裕無く断念。

新潟駅直結(※ただしちょっと歩く)

2018年1月28日日曜日

31

日本全域で記録的に寒かった1月25日(正確には午前7時5分)31歳を迎えた。

前厄。サーティーワンアイスクリーム。アラサーとまだ言っても許されそう。

31歳と聞いて連想するのはそれくらい。

率直な感想として、年齢はもはやどうでもいい。どうでもよくなった。
思えば、20代の頃の私は、常に年齢を意識していた。
23歳だからまだ早いとか、25歳なりの振る舞いをとか、27歳の時のあの人は落ち着いていたとか。
プレッシャーというより、一つの目安というかチェックポイントのような感覚で、何かを考えたり行動する時に年齢を意識していた。
周囲の人から頂く誕生日祝いのメッセージやプレゼントの数を一年間の自分への評価の基準のステイタスのように感じていた時期もある。

けれどいつの間にか(数年前からだと思うが)私は年齢を意識しなくなってきた。
おめでとうの言葉やプレゼントも、数ではない。私という存在を、その私の誕生日を覚えて祝おうと思ってくれた事にただ感謝。
年齢を重ねていくと楽しい事の方が増えていくし、見栄が無くなってきた。
どう生きるかという選択肢は自分次第で何歳でも変えられると思う。
30歳でも31歳でも32歳でも関係ない。

でも、私の身体、特に子宮は着実に年齢を重ねている。
その事は忘れないよう、意識的に自分に唱えるようにしている。

女性の年齢が上がるにつれて自然妊娠の確率が下がっていく事を示したグラフを初めて見た時の衝撃は忘れられない。
2014年の夏に参加したセミナーで見たそのグラフの中で、当時の私の年齢は既に妊娠確率が右肩下がりの真っ最中にいた。
統計上とはいえ、今の自分は昨年の自分より確率が低い群にいて、来年は更に低い群の中にいる。
そのグラフ自体も衝撃だったが、その事を自分が知らなかった事の方が衝撃が大きかった。
仕事優先だった当時の私が、結婚・妊娠・子育ての話題を意図的に避けていた事は事実だったが、避けていた現実にこんな衝撃的なグラフが待っていると思ってもいなかった。
と同時に、知れてよかった。セミナーに参加して良かった、と思った。
セミナー参加者の年上の女性に、凄く衝撃的だったと感想を伝えると「まだ20代でしょ?いいじゃない。私なんて既に30だよ!焦りしかないよ!」と笑いながら言ってくれて、申し訳ないと思いつつ少しホっとした。

その日から、私は自分の年齢を妊娠が出来る確率の数値と共に認識するようになった。
食生活を見直し、ダイエットの目的が美容や見た目では無く、妊娠・出産へのリスク回避の為と考えるようになった。(と言いつつ成果は無くて万年ダイエッター)
彼をただ休日に一緒に過ごしたい人、快楽を満たしてくれる相手ではなく、結婚相手すなわち一緒に子育てが出来る人か、の基準で見るようになった。(そしてその彼と結婚する)

30歳で結婚して彼の住まいに引っ越し、大好きだった仕事を辞めて、私は心を病んでしまったけれど、それでも子供を持つ事は諦めたくなかった。
子供を持たない選択肢もあると思うけれど、私はまだその為に努力をしてない。
この数年、その為に逆算してきた事を、努力もせずに諦めるのは嫌だった。

これも4年前のセミナーで教わった事だが、妊活にかける期間や金額は夫婦で話し合っておくことが大切らしい。
かける時間や金額、費やした心身の労力と妊娠の可能性は必ずしも比例しないとのこと。
結局のところ子供は授かりものという事らしい。
お金を掛ければ何でも手に入る時代でも、生命の神秘だけはお金で買えない。
(というとロマンチックだけど、妊活で悩む女性からしたら神様のいじわる!である)

31歳は妊活年。
私は沢山考えて、夫婦で沢山話をして、今年は妊活を頑張ろうと決めた。
今年は妊活をがんばる、と宣言すると、焦らないでとか目標にしない方がいいよと言ってくれる人もいる。プレッシャーになるのではと心配してくれているのだろう。
でも、いつ授かるかわからない、そして授かると生活が一変する妊娠という分岐点を意識の片隅に置きながら生活をする事の方が私には不安だった。
それなら、自分たちの中で目安となる期間を決めて、その中で出来る限りの事をしていきたい。
その後の事も夫婦では話しているけれど、まだ書くのはやめておく。
目標設定記念に、誕生日に基礎体温計を夫に買ってもらった(正確には買わせた)。

調べてTDKかオムロンがいいなと思っていたら、近くの電気やにはオムロンしかなかった


まだ始めて数日だけど、毎日同じ時間に目覚めて(起き上がってはならない)舌の下に体温計突っ込むのってしんどい。
習慣になって当たり前に出来る日が来るのだろうか。

2018年1月23日火曜日

京都・嵐山~つま先立ちの非日常体験~

2018年の年明けに、厄払いを兼ねて比叡山の旅行を計画し始めた際に、
せっかくならばと京都は嵐山「星のや京都」に泊まろうという事になった。
自分たちの生活水準からはなかなか思い切れないお宿であるが、
そもそもはこの時期にハネムーンを兼ねた海外旅行の予定していた事、
また昨年は夫の勤続20年目でもあり、その祝いもしよう、という事で
夫婦共に気持ちが大きくなり、半ば勢いで宿泊の手配を進めた。

日常から少し贅沢な体験をする事を「背伸びしてみる」と言うけれど
私たちにとって背伸びどころでは無く、つま先立ちのレベルの体験だ。
とても上質で特別な非日常体験になったので記録しておこうと思う。

京都駅から電車を乗り換えて嵐山へ。
渡月橋のたもとにある舟待合に行き、名前を告げると待合室へ案内された。

待合室でお茶をいただく。外が寒かったのでほっと一息。

手続きが終わると専用の船で宿泊施設へ案内されるのだった。
いよいよ出発。嵐山に来るたびに見掛けていた舟に自分が乗るとは。

舟での移動は約15分。
舟の上ではガラス張りの小屋のような空間の中に座るので雨風の心配はないが、
席に着くとひざ掛けと袋に入った湯たんぽが置いてあり、身も心もほっこりした。
ちょっとしたことなんだけど、嬉しくなる。

舟が進むにつれて、渡月橋や周辺の人の賑わいがどんどん小さくなっていく。
あぁ、現実から離れて行く。非日常空間に向かっていくんだ。という気持ちになる。

賑やかな街並みよ、しばしの別れだ

渡月橋を川の方から見る。

都心の高級ホテルのフロントがあえて最上階に近いフロアにあったり、
有名な旅館が大きな駅から少し離れた所にある理由を、私は最近になってわかり始めた。
日常から離れる時間を作る事で、情報過多の日常から気持ちをリセットさせる。
特別感を増長させてくれる。

「ラウンジが上の階にあるって、めんどうくさいね」
なんて言っていた20代のアフターヌーンティーデビュー期の私よ、薄っぺらいな。

同じ時間に舟に乗っていたのはお土産袋だけを持った連泊中と思しき宿泊客だった。
嵐山の街中に「ちょっと買い物してくるから舟出してくれる?」って出掛けるなんて。
くぅー!羨ましいぜ!
(実際は舟は要望ベースではなく15分毎に運航していると言っていたので、半分妄想)

星のやが見えてくる。スタッフのお出迎え。

舟を降りて、今宵の宿へ。

星のやの敷地に到着すると、そこは先ほどまでいた賑わいの街中とは別世界だった。
100年以上に建てられたという家屋が並ぶ集落。
一晩だけでもここの住民になれるのだと思うと、それだけでも十分な特別感だった。

写真の枠外だが右手前では、和楽器の音楽が迎えてくれる

日本の遊び道具が置いてあるお部屋も。

川沿いにある客室は「水辺の私邸」と名付けられているが、
その名にふさわしく、一室ごとに玄関があり、和室があり、書斎がある。


(言わずもがな、私たち夫婦が住んでいる自宅より広い)
水辺を眺めながら机に迎える書斎は夫のお気に入りで、
集中して仕事が捗ったと、得意げに言っていた。
(そもそも仕事をしてほしくなかったのだが、満足そうなので黙っておく)

部屋にテレビは無いのだが、音楽プレイヤーとお勧めのヒーリング系CDがある。
そもそもこの落ち着いた空間に賑やかなテレビは不要だと私は思うけど
寒くて窓が開けられない冬は、水の流れる音を聞くのも難しいためCDが大活躍だった。

到着後は敷地内の蔵に行くと、ウエルカムの和菓子と飲み物の振る舞いをして頂けた。

冬の和菓子なので…と言って温めた土鍋から目の前で出してくださるのもまた粋だ。
せっかくの温かい和菓子を写真に撮るのに時間を使い、
食べる頃には常温にしてしまった私はまだまだだな、と思う。
(しかも撮った写真はイマイチ)


 
時間をかけたわりに特別何でもない写真(でも撮る)

夕食もせっかくなのでと、敷地内のダイニングでいただいた。
料理のレポートは苦手なので割愛。

驚きと感動の連続だった。
出汁のように時間をかけて素材の良さを存分に引き出した日本食を食べると
私はいつも「日本人で良かった」と心から思う。
この日の夕食の時も、何度も日本人で良かったー!と呟いた。



 
 
 


あと特筆しておきたいのは、ノンアルコールのペアリングがあったことだ。
ワインや日本酒のペアリングは時々見掛けるけれど、ノンアルコールはまだ少ない。
八寸には人参ジュース、お刺身にはモヒートベース、焼き物には甘酒風など
見事に料理とマッチしている。
お酒、特にワインが苦手な私は、料理と飲み物の相性って
体験としてよくわかってなかったけど、こういう事ね、とようやく腑に落ちた。

たっぷり二時間ほどかけて夕食を頂いたあとは、お部屋でのんびり過ごした。
敷地内の蔵はバーとしてお酒が飲めるし、ラウンジも24時間自由に出入りできる。
勿体ない気もしたが、体も心も満足した私たちはゆっくり眠りについた。

ターンダウンを依頼していたお部屋には、橙湯の仕度が。


夜の雰囲気も素敵

翌朝は、朝のストレッチに参加。
少し肌寒い冬の寒さも、静かに呼吸をしながら体を伸ばすと心地よく感じた。
「日常生活では朝の時間はあわただしく過ごしてしまいがちだけれど、
時々でいいので、今日のようにゆっくりと体に空気を入れて起こしてみてくださいね」
というスタッフさんの言葉が身に染みた。

参加者は女性ばかりの中、付き合ってくれた夫よありがとう。

朝食は、予約をしていた朝鍋をお部屋でいただいた。
予約をした時間に道具を運んできたスタッフが和室に籠ること約15分
和室に立派なお鍋が用意された。


勤続20年のお祝いと伝えると、鯛の器に入ったお赤飯が。ミニサイズなのもありがたい。

野菜中心の鍋を、今日の予定などを話しながらゆっくり一時間ほどかけていただいた。

星のやの宿泊は、2泊以上が推奨されていて時期によっては1泊での予約は難しい。
今回、私たちは直前の予約だった事もあり1泊で予約が取れて駆け足の滞在になったが、
次の機会がもしあれば、やはり2泊以上滞在したい。
この非日常空間は、住むように滞在する事で本当の贅沢を感じられると思う。

そう夢を見ながらも、頭の中では予算を考えてしまうド庶民の私達だが
いつか、きっと自分自身の人間としての深みを増してまた訪れたい。
そう思う場所だった。

24時間利用可能なラウンジ。日本に関する洋書が沢山あった。













到着時・夜・出発時、何度も写真を撮った景色
どうにか帰らない方法を模索するも、諦めて舟に乗った。



現実世界への橋のような渡月橋。この後、嵐山を2時間ほど散策した。

2018年1月22日月曜日

30歳、6年間の仕事を振り返る

自閉症スペクトラム(ASD)の可能性を指摘され、30歳は自分の事を振り返る年となった。
もう少しで31歳の誕生日を迎える事もあり、
過去を振り返って消化させるのも、そろそろ終わりにしようと思う。

ASDについて調べていくと向いている職業として紹介されるのは、
一連の作業を反復する事が多い事務職や技術職。自由な発想という意味で芸術職。
向いていない仕事には営業職や接客業と書いてある。
理由は、空気が読めず臨機応変な対応が出来ないから。

精神科の最初の受診の時、接客業に従事していた私に
医師はこれらの「向いている職業」への転職も一つの解決策として提案した。
けれど私はそれがなかなか受け入れられず、退職や転職に踏み出せずにいた。
私は接客が好きだった。
私は、6年間結婚式に関わる仕事をしていたのだった。
お客様に結婚式場の案内をしたり、式の為の打ち合わせをしたり。
一日に6時間近く喋り続けていた日もある。まさに接客業だ。

診断を受けてから、私はこれまでの自分の仕事を考えていた。
その期間の話を書いていこうと思う。

                                   

自分のコミュ障を自覚せず内定も先の予定も無く大学を卒業した私は、ウエディングプランナーになる事を決めた。

なぜウエディング業界だったのかは、いくつか理由があった。母親がブーケの仕事をしていたとか、イベントが好きとか、新卒採用をしているが離職率が高く慢性的な人材不足で中途採用に積極的(当時は)とか、国家資格などは無いけれど就業を目指した学校があるなど。そして、直感的にとても強く「これやりたい」「これしかない」と思っからだ。新卒の就活時もウエディングの会社は受けていたが、ことごとくお断りされていた。大学を卒業したばかりの自分では競争力が無いと考え、現場経験と知識を付けて中途採用されるために県内のホテルでアルバイトをしつつ「ウエディングプランナー養成学校」に通うことにした。

アルバイトを始め、養成学校に通い始めてから1年後、私はウエディングプランナーとして新しい土地での生活を始めた。それから結婚をするまでの約6年間、自然に囲まれたホテルのウエディング部門で初めて正社員として働いた。
7年間の変化や、仕事内容について書き始めるととてつもなく長くなるのと、自己分析という目的から外れるので、割愛。いつか機会があれば書きたい。

今は、なぜ私がウエディングの仕事を継続してやる事が出来たのか?という事をしばらく考えた事を、言葉にして残したい。そこに、自分がこれから働き続けるためのヒントがあるようにも思う。
簡潔に書くために、ASDの特性の3つのポイントに沿って振り返ってみる。


①人との関わり方が苦手で、社会的なやり取りが困難
(社会のルールにスムーズに適応できない。空気が読めずTPOに沿った行動が出来ない。など)

私は大学卒業後に通ったプランナー養成学校でメンターとなる2人の女性と出逢う。1人は講師で、業界歴が長く、現役のフリーランスのウエディングプランナーでもある。日本特有の結婚式の常識、業界の暗黙のルール、新人スタッフがどう立ち振る舞うべきかを授業という名のもとに事細かく教えてくれた。もう1人のメンターはスタッフで、プランナー経験もあり、主に就職のアドバイスをくれた。「私服可」の面接の時は、私が自宅で撮影したコーディネート写真をメールで送るとアドバイスまでくれた。
私が2人を信頼して憧れた理由は、2人がただの親切や善意では無く、理由と根拠を持って私に知識や技術を教えてくれた姿勢にある。2人にとって私は生徒であり、同時に顧客である。私が払った受講料への対価として、就職までのケアをするとはっきり言ってくれた。ケアの内容も感覚では無く、根拠を以って教えてくれた。これがプロフェッショナルの仕事だと見せてくれた。内定ゼロで社会に対して心を閉ざしていた私も、2人のプロとしての対応に心を開いて、目標を叶えるまで努力しようと思えた。そして、叶える事が出来た。今でも2人ともとても大事な存在だ。

養成学校で、一般常識・業界ルールといった広い知識は習得した私も、会社に入ればそれぞれのルールがある。入社当時は毎日が必死だったが、今振り返ると、空気が読めない私は勤務開始当時は色々とやらかしていた。けれど、時期外れに中途で入った当時一番年下の私に、周囲の先輩達が本当に親切にしてくれた。注意をしても見捨てずに、私を育ててくれたのだ。ウエディング業界で働く人は、全体的に人間好き・観察力がある・世話焼きな人が多いとは言われるが、それにしてもいい人たちに出会ったな、と今になって感じる。

→暗黙のルールやTPOを空気を読んで察する事は苦手だが、社会のマナー、会社の規則、仕事上の決まり事として教えてもらえれば、理解して習得する事が出来た。教えられる事やルール通りの行動する事は得意だ。


②コミュニケーションが困難
(言外に込められた意味をくみ取る事が苦手。言葉をそのまま受け取る。など)

ウエディングプランナーにはお客様の要望を「聞く」能力だけでなく、表には言いにくい事も「聞き出す」能力が求められる。その上で「提案する」能力も必要だ。一方的に話をする事が得意な私に、3つめの「提案する」事はさして抵抗は無かったが、「聞く」「聞き出す」事が難しかった。聞かれる前に要望を一方的に話してくれる自分のようなお客様は稀であった。

状況を察しにくい私は、冗談やおせじをそのまま受け取る事が多かった。プランナーとお客様の会話の中でも、冗談やおふざけと本当に考えている事が入り混じる事がある。冗談の基準は人それぞれなので、初対面の人との会話では混乱しやすい。私は会話の間に出来るだけメモを取るようにして、その場や少し時間を置いてから「先ほどの○○は、実際に検討されますか?」などと確認を取るように心がけた。時々「それは冗談ですよ~真面目な人だなぁ」と笑われたし、半分呆れ顔の人もいたが、それが原因で怒られる事は無かった。何でもメモを取る事も、プラスに受け取るお客様が多かった。真面目だと思われることは、プランナーにとってはメリットだった。

プランナーに求められる「聞き出す」能力は、私にとって高い壁だった。始めの内は聞き出し方がわからず、過去にコミュニケーションでやらかしたトラウマから消極的になった。解決方法は、養成学校で教わった。「プランナーのお客様への発言には全て理由がある」「まずは聞いてみる。違っていればすぐ謝る」という事だった。簡単で当たり前に思える事だが、これらにも理由がある。結婚式は家族同士の繋がりともいわれるように、プランナーは時として家族のデリケートな問題に足を踏み入れる必要がある。人によっては、開けたくない扉を開けられるような不快感を持たれる場合もある。けれど「ご家族の結婚式を大切な一日にするため」という理由があり、失礼でない聞き方をすれば、聞かれた方も大抵は納得して、想いの内を話してくれる。感情的に拒絶する人もいるが、その場合はすぐに謝って訂正すれば、トラブルになる事は防げた。

養成学校では、講師の経験から失礼で無い聞き方や、お客様からの返答の様々なパターンを教えてもらい、備えておくことが出来た。自分がプランナーになってからは、質問の理由と聞き方のパターンを考えておき、実践しながら微調整をしていった。働いた6年間、コミュニケーションは私にとってずっと課題であり、確固たる成功法は見つけられなかった。何度かやらかしてしまい、お客様や上司に迷惑をかけてしまった事もある。けれど、少しずつ自分の接客が上達していく事は充実感があったし、お客様からの感謝の言葉や、結婚式が終わって数ヶ月経っても連絡をくださる方がいたりすると嬉しかったし自信になった。

自分のコミュニケーション下手を自覚して「確認」「メモを取る」を繰り返す。思った事を発言する前に一拍置いて考える。話す内容に理由を持ち、不快な反応をされたら直ぐに訂正する。


③想像することが困難
(臨機応変な対応が苦手で急な変更がや変化を嫌う。こだわりが強く視野が狭くなる。など)

大勢の人が集まる結婚式に急な変更・トラブルやハプニングはつきものでその際にどう対応するかが手腕の問われる点でもあった。だからこそ、結婚式を準備するスタッフは、様々な状況を想像してその時に必要な対応を考え、準備をする。それも、担当プランナーが1人で負うのではない。私が働いていた会社では、結婚式当日を迎えるまでに担当プランナー以外のプランナーが手配内容を確認する仕組みがあった。担当者が気付かない点も、他のプランナーが気付いて備えられるようにされていた。また、結婚式当日も主に結婚式の現場に立つのはプランナー以外のスタッフである。会場のサービススタッフ、介添え、ヘアメイクなど、複数の人達の経験値と技術力によって支えられている。
この仕組みにはとても助けられた。他のスタッフからの指摘で、当日のトラブルが防げた事は沢山あったし、何より私自身が準備できる事で精神的なゆとりが違った。新人の頃はそれでも想定外の出来事が起るが、私が混乱していても周囲のベテランスタッフが適切な対応をして大事にならずに済むことがあった。

経験を積み、様々なパターンが想定できるようなると、当日予期せぬハプニングが起きても冷静に対応が出来ている自分がいる事に私は気付いた。「ハプニングA」には「パターンA」の対応をすればいいし、予期せぬ「ハプニングX」が起きても「パターンAとCを組み合わせて」というように、応用が出来るようになっていった。先輩スタッフからの経験談も自分自身の対応パターンとして蓄積できる。色々なパターンを知り、自分の中に蓄積する事で、私は不測の事態にも混乱しないようになっていった。

強すぎるこだわりは、基準を間違えなければプランナーにとっては強みになった。接客業でも、結婚式は特にお客様の要望、夢が重視される。時にそれは現場スタッフの効率や固定概念と逆行する事もあるが、私はそれを「お客様の為」と捉えてこだわるようにした。周囲のスタッフにすれば、現場を考えない頑固な新人だっただろう。けれど周囲の人たちは実現方法を共に考えてくれたし、お客様からは感謝される事の方が多かった。6年間働くと、お客様至上主義の考え方に企業としてのブランドや判断基準も加えて考えられるようになっていった。基準を理解すれば、こだわりは長所となっていった。

急なトラブルの対応は苦手だが、チームでトラブルを想定して色々なパターンを想定内にしておく事で、トラブルが起きた時にトラブルとして捉えずに次の行動パターンを考えられる。こだわりは基準を明確にする事で強みに出来た。


まとめ:ウエディングプランナーという職業を選んで良かった、と思う。


ASDには様々な特性がありそれに伴う「苦手」があるが、ウエディングプランナーとして求められるコミュニケーション力・知識力を養う事で、私はその「苦手」を少しずつ克服したり、解決方法を習得していったと考えている。一人前のウエディングプランナーを志して努力した事が、そのまま日常のコミュニケーション能力の改善につながったのだ。

例えば、特性の③の不測の事態への備え方は、私自身が日常生活を送る上でも大切な考え方となった。プライベートでも私は急な変更、トラブルなど想定外の出来事でパニックになりやすい。けれど、人との会話や約束、旅行には不測の事態はつきものである。友人との会話、一日の予定などにも事前に頭の中で色々なパターンを想定して、自分の精神に耐性を付けておく事で、パニックを最小限に付き合う事が出来た。私は今でも、人のひとつの発言や行動から、複数の返答やパターンを考える事が習慣になっている。そんなに考えて疲れない?と言われる事もあるが、習慣なので負担は無いし、その方が生きやすいのである。

他の職業を選んでいたら…?と過去の選択しなかった道を想定する事は難しいし意味が無い事はわかっている。それでも、結婚式に関わる仕事を離れて別の接客業に従事した所、周囲の環境も要因ではあるがうつを発病したため、私の場合はウエディングプランナーが合っていたのだと考えてしまう。それくらい、努力する事が楽しく、その結果が自分の実になり人間力が鍛えられる仕事だったのだ。

とても尊く、重責な仕事なので業界に戻りたいと簡単には言えないのだが、ウエディングプランナーという職業に出会い、自分がそうして働いた事が私にとって何よりの財産と自信になっている。本当に良かった。6年間の私に出会い、育ててくれた先輩・仲間達にも心から感謝している。

                                       

6年間、自分の生活を捧げたウエディングの仕事の事を一度きちんと振り返りたかった。
精神的に最も参っている時期、私は何度も以前の自分を羨んだ。
それほどに、自分にとって大切なかけがえのない時間だったと、離れてから気付いた。

自分の6年間を振り返るのに成長度、感情、人間関係、色々な切り口があるが
今回コミュ障の理由となる自分の特性がわかったのでそれに基づいて振り返ってみた。
「私自身は××だけど、□□であれば出来るようになる」という事がわかるのは
また社会に出て働き続ける時に、幾分気持ちが楽である。

これからの人生で何があっても、あそこで働いた6年間の事は肯定したい。
肯定し続けられる選択をこれからも続けて行きたいと思う。

2018年1月20日土曜日

30歳、コミュ障を振り返る~その2~

同じタイトルの~その2~に続き、自分に可能性がある自閉症スペクトラム障害(ASD)
について調べた今、自分の半生を振り返っていく。

この作業、思っていたよりエネルギーを使う。
座って黙々とノートに書き出し、なるべく簡潔になるよう書き直しながら
PCにタイプするという作業は、地味で静かなのだけどなかなかしんどい。
動いていないのにお腹が猛烈に空くし、眠くなる。
睡眠は浅くて、翌日起きても頭がボーっとしていた。
もう少しでスッキリ、消化出来る気がしている。

話が逸れたが、私が色んな本を読んで知りえたASDの特性の大きな3つは以下。
①人との関わり方が苦手で、社会的なやり取りが困難 
②コミュニケーションが困難
③想像することが困難
ちなみに自閉症スペクトラム障害の「スペクトラム」とは「連続体」という意味。
これは同じ障害でも知能指数には高低差があり、
軽症から重症まで広汎に分布しているからそう名づけられている。
ASDでも知能指数(IQ)が高い場合と低い場合でそれぞれ障害名はついているけど
境界が明確でないのでその総称としてASDと呼んでいるようだ。

心理検査ではIQが数値化されて結果に表示される。
私も検査を受けたけれど、IQは正常範囲だった。
科目の得手不得手はありつつも、学校の勉強の成績はどちらかというと良い方だったので
その結果に異論はなかったのだけれど、だから気付かずにきたんだなと納得できた。

物心ついてから中学校を卒業するまで、小さな町で育った。
なんとなく自分が周りの子とは違うと感じていても
それはコミュニティが合わないだけ、ずっと同じコミュニティにいるからだ、
と考えた私は、高校からきっと人生は明るくなると思っていた。

                                      

新しいコミュニティに属したかった私は、自宅から電車で1時間の距離にある私立高校を受験した。ゆとり教育の先駆けだった当時、自己推薦入試制度があり、学校の成績と面接と作文で受験が出来た。面接も作文も、過去問からのロープレや対策をして無事、合格。高校受験という人生最初の「受験」を苦労なく乗り越えた。

高校生活の始まりは楽しかった。育った環境の違う同級生との何気ない会話のやりとりや放課後の遊び方に戸惑いはあったが、中学の学区が違う子達ばかりだったので「中学ではこうだった」「地元は田舎で何も無いから」と言い訳をしながら教えてもらった。校則が厳しい学校だったので、学校内では決められた制服をキレイに着ていれば問題なかった。同級生が放課後に着替えて遊ぶ為に可愛いベストや靴下を持っているのがわかると、急いで親に買ってもらった。皆が読んでるという雑誌を買い、ファッションページだけでなく特集ページなどもくまなく読んで流行りの言葉やアイテムなどを知っていった。今から振り返れば痛々しい苦労だったけれど、新しい事を知り、その結果同級生に溶け込めているように感じられることが嬉しかった。楽しかった。

入学してすぐ、文化祭や体育祭の学校行事を運営する有志の部活に所属した。行事の準備・運営・管理はとてもやりがいを感じる事だった。前年から引き継いだマニュアルを基にやる事リストをこなすのは私にはわかりやすかったし、集団行動が苦手な私は、クラスメイトと一緒に催し物をやるよりは、一歩下がって裏方として立ち回る事の方が気が楽だった。文化祭のクラスの打ち上げには片付けで参加できない事もあったが、寂しいとは思わなかった。それより、やらなければならないタスクがあり、順番に片付けて行く事が楽しかった。自分が考えたり準備した事で同級生が楽しそうに過ごしている姿を見るのが嬉しかった。学校や人づきあいは苦手だけれど、私は人間が好きだし誰かを喜ばせる事が好きなんだと気付いた。

学校以外にも自分の居場所が欲しくて、ゲームや漫画の趣味を通じて色々な人とやり取りをした。イラストが可愛い、描いた人に会ってみたい、と思えば連絡を取って交流の為のイベントに行き、好きなものについてお喋りをした。そこでは好きな事について一方的に話しても、嫌がらせなどは受けない。学校とは違って次にいつ会うかわからない関係性なので過剰な気を使う必要も無く、気楽だった。私はそこで大人のコミュニケーションを体験している、と思っていた。

高校生活の大半は楽しかったが、やはり人間関係のトラブルはあった。雑誌のハウツー特集で習得したコミュ力も3年間の学生生活の内に剥がれていった。私に付き合いきれない・愛想を尽かしていく人も出てきた。付き合った彼には別れ際に「いい事をしているように見せてこちらの気持ちを何も考えていない」と言われ、仲良くしていた女の子には突然無視されるようになった。私が彼女の交際相手について気分の悪い事を言ったのがきっかけだと他の友人に言われたが、ちょっとした皮肉のつもりで悪気は無かった。ある日から同じクラスの中でお弁当を一緒に食べる仲間がいなくなったが、自分の非を理解してない私は棟が違う他のクラスの友人の所までお弁当を持って行ったり、時には好きなゲームが同じ男子と一緒に食べたりした。そうしようと自分で決めると怖くなくなった。むしろそれが一匹狼でカッコイイ、とも思っていた。

通っていた高校は付属の大学があり、学内試験で付属大学に進学する選択肢があったが、私は行きたい大学・学部があり、そこを受験する事を決めた。同じ関東でも自宅から離れた所にあるその大学に通うには実家を出る必要があった。都会のど真ん中にある大学で、地元とは何もかもが違う。育った町から1時間かかる高校に出てこんなに楽しかったのだから、もっと都会で遠い所に行けばもっともっと楽しくなるはずだと私は考えた。

範囲が決められた学校のテストは得意でも、ゴールまでの対策を自分で考えなければならない受験勉強は苦手だった。第一志望の大学は不合格。受験当日、得意な英語の試験で知らない単語が出て来て試験中にパニックになり、試験時間が終わった直後に母親に電話して「もうダメ。帰りたい」と言った事を覚えている。

唯一受かった大学に入学したものの、第一志望が諦めきれずに3ヶ月で中退して浪人生になった。浪人時代も親には自習してくるといってハマっていたミニシアターに通って映画を見たり旅行に行ったり。何のための期間なのかと問われると答えには詰まったけれど、自分が見たい、行きたいと感じる好奇心が最優先で罪悪感は無かった。浪人した年に志望大学・学部のAO入試が初実施され、3ヶ月の大学生活で得た論文とディベートのノウハウで合格、憧れていた大学生活を叶える事になった。私以外は現役高校生ばかりのAO入試の会場には茶髪・ピアス・スーツで行った。

大学生活はそれまでの人生のどの時代より楽しかった。入った学部は真面目で正義感の強い学生が多く、少数派の意見も論理的に筋が通っていれば聞き入れられた。地方出身者、帰国子女、留学経験者もいる中で人と違う行動を取っても、悪口を言ったり集団で無視する人はいない。高校時代の経験から大学祭実行委員会に所属して、友達とは違う「同じ目標に向かう為の仲間」も出来た。アルバイト先で学校とは違う人間関係が築ける事も新鮮で、楽しかった。私は時間の許す限り、色々な団体に所属した。

「集団」対「わたし」という点では最も充実していた大学生活だったが、大学で出逢って今も連絡を取っている友人はごくわずかだ。大学卒業とほぼ同時に、私自身が拒絶をしていまった。

集団に属した時、私はそれぞれで何かしらの役割を担っていた。「後輩」「先輩」「ゼミ仲間」「大学祭実行委員」「副委員長」「飲み会幹事」「アルバイト」など。集団毎に目的があり、目的に沿った立ち居振る舞いを考えて行動すればいい。「飲み会幹事」であれば「幹事のタスク」をネットで調べてそれに沿った行動をすれば、ミッション終了。嫌な顔をせずに終えれば参加者からは御礼を言われる。個人的に相談をされた時、先輩からなら「後輩」らしい呑気な回答を、後輩からなら「先輩」らしい回答をすれば良かった。それぞれの集団に行く前には自分の中で役割を考えて準備をしてシュミレーションをして臨んだ。自分が上級生の実行委員会ではクールに「おはよう」と挨拶して、年上ばかりのバイト先では元気よく「おはよーございまーす!」と挨拶しよう、そんな具合に自分を調整した。それがTPOに合わせた行動だと思っていた。集団ごとに演技をしているようなものなので、すごく疲れる。でも繰り返す内にそれが当たり前になり、私はそれこそが社会人になる前の学生生活で経験するべきステップだと考えていた。下手な演技はばれていただろう。何度か行った合コンで連絡先を聞かれる事は無かった。時々「無理しなくていいよ」「疲れるでしょ?」と声をかけてくれる人がいたが、これが私のやり方だと通すことで気にかけてくれた言葉を無視した。

役割が無いと動けない私は「自分がしたい事」を明確にして、その為のプロセスを自分で考える事が必要な就活で挫折をした。沢山の会社説明会に行き、100社近い会社にエントリーをして、面接も沢山受けたが、全て落ちた。内定ゼロ。就活シーズンの少し前に行われた「模擬面接」では一番いい評価をもらった。3人いた面接官役の講師たちの反応も良く、フィードバックもほとんど無かった。その調子で企業の面接に臨んだけれど、結果には繋がらずただ大学側を憎むだけだった。

「ヤル気ある学生を求めます!」と言ってヤル気がある自分が落とされる事が理解できず、ヤル気の示し方も間違っているなら教えてほしかった。雑談が盛り上がって笑顔で終えた面接も、数日後に帰ってくるのは見慣れたお断りのメール一通。どういうつもりだったのかわからなかった。ファッションに自信があるわけでは無いのに「私服可」の面接は全て私服で参加した。その面接にリクルートスーツで参加した同級生が受かったという話を聞いて、それなら「私服可」などと書かないで欲しいと思った。
真面目に単位を取り、必死に周囲の顔色を窺ってふるまった自分が必要とされない社会なんてこちらから願い下げだ、と思った。先の予定を何も決めずに大学を卒業した。継続を提案してくれたアルバイトも辞め、卒業間際に内定の無い私に連絡をくれた大学就職部からの連絡も全て拒否して、空っぽになった。自分は社会から見放されたのなら、自分からも見放してやるつもりだった。

親は私に甘く、周囲の人達も優しかった。「あなたならどこかで必要とされるよ」「不況だからたまたまだよ」と言ってくれた。それなら、私を雇ってくれる会社を教えてよ、と言いたかった。社会から下された評価と、身近な人たちの言葉のギャップに戸惑った。

大学を卒業した3月、商品が好きな会社のアルバイトの面接を受けた。留守電に入った業務的なお断りの言葉にパニックになり、電話をかけなおして理由を問い詰めたが、教えてはくれなかった。大学の卒業式、同級生たちと同じように袴を着て写真を撮った。明日から自分の「役割」が無くなる。そう考えると不安だったけれど、苦楽を共にした同級生との最後の時間は楽しかった。4月からの仕事の事を憂鬱そうに話したり、配属先が地方に決まりやけ酒を飲んだり、どれも私には羨ましくて眩しかった。やっぱり私は皆とは違う、そう確信した。

                                      

高校か大学卒業までの約7年間。
中学までの15年間以上に思い出して書くのが辛かった。
大人になればなるほど、わかりやすい傷つき方をしなくなっていたからだと思う。

私自身のコミュニケーションや受け取り方に特性がある事は変わらない。
小さい頃は、思った事を口にしたり、自由すぎる行動をとると
友達は嫌な顔をしたり、次の日から遊んでくれなくなったり、反応がわかりやかった。
こちらも怒ったり泣いたりして、その時の感情を消化する事が出来た。
小さい頃の私は、不貞腐れたり泣いている時が本当に多かった。

大人になればなるほど自分なりの生きるコツを習得するようになった。
一度嫌な顔をされた事は言わないように努めたり、
本やインターネットから「普通のコミュニケーション」を学ぶ事も出来た。
でも、時にはほころびが出る。やらかしてしまうのだ。
その時の周囲の反応も、小さい頃とは違う。
皆、相手(私)を傷付けないようにそっと去って行ったり
小さなほころびであれば、見ないふりをして関係を続けてくれるのだ。
それが、大人としての対応だからだろう。

時々、ズレを指摘してくれる人はいた。
けれど、私自身が自分に原因があると思っていないので、
相手の事を「小うるさい人」「嫌な事を言う人」として拒絶していたと思う。

周囲から傷付けられる事が減っていけば、
そもそも自分ではおかしい点を自覚していないので
自分は何か人と違っている、ずれてる、と思っても、深く突き止める事はしなかった。
突き止め方はわからなかったし、誰も教えてくれなかった。
むしろ人には無い発想が出来る天才肌なのかもしれない、と
普通では無い事を都合よく解釈していた時期もある。
自分をきちんと客観視できなかったツケが就活での内定ゼロだったと思う。
同級生と一緒に「自己分析」と言っても本当の意味で分析していなかった。

蛇足だが、私が就活生を終えて数年後、朝井リョウの『何者』という
就活生をテーマにした小説が発売されて読んだ。
大人の決めた就活という競争の中で、体裁や裏切りや自我の中でもがく姿が
就活当時の自分と重なって思い出されて、辛かった。
一方で、客観的に書かれたこの小説を当時読んでいたら
自分がずれてて「イタイ人」だった事にも気付けたかな、と思った。

大学を空っぽの状態で卒業した私は、
1年後にウエディングプランナーとして新しい土地で働き始める。
結婚して引っ越しをするまでの6年間、その環境での仕事に没頭するのだけど、
その間にもがきながら得たものが、普通っぽくふるまう為の大切なものになっている。

今もまだ普通じゃない所があるけれど、
ここに書いた思春期の頃よりは、自分の事がわかり、普通の基準を知り、
そのうえで自分がやりたい事をことばに出来るようになったと思う。
ウエディングプランナーに没頭した7年間は
私にとってとても大事な時間だったので、また改めて書きたい。

2018年1月19日金曜日

サーティーワンアイスクリーム

色々落ち着いてきた1月後半。
落ち着くまでもがいた期間、約4ヶ月。長かった。

【見られたいのと見られたくないのと】
ブログを初めて19日目。
始めは自分の考えを整理する落書き帳のような日記として読み手を気にせず書き始めた。
アクセス数とかコメントとか気にしなくても平気そう、という事でBloggerを選んだ。
しかし書いていくと「誰かには見てほしい」と思うようになった。
インスタのプロフィールにリンクを貼ってストーリで告知し、
比較的ポップな旅行記をフェイスブックに貼ったらアクセス数が急上昇。
リンクを貼った旅行記以外(鬱記事)もアクセス数がいくらかあるので興味深い。
「ブログを見付けたら、昔の記事も遡って読む」私のような人は少数ながらいるようだ。
これは良い気付きだった。
アクセス数が増えると誰に読まれているかわからない恐怖があるが
誰かに見てほしい欲求は満たされ、少数派がいる事はわかったので恐怖も相殺された。

【眼鏡の新調】
来月から約4ヶ月ぶりに復帰する仕事に備えて、新しい眼鏡購入した。
これまで仕事の時間はコンタクト、眼鏡は在宅時だけ着用していたが
気分を変えてこれからは眼鏡を仕事と在宅用アイテムにする予定だ。
これまで眼鏡は私にとって在宅時のリラックスアイテムだったので、
価格重視、買い物先で1時間以内に出来上がるような気軽な物を買っていた。
けれど今回買う眼鏡は、仕事アイテムとして、である。
この数ヶ月、仕事の仕方も自分なりに色々考えていた事もあり
心機一転、気合を入れてという意味も込めて、それなりの金額の買い物となった。

たまたま訪れた最寄りの眼鏡屋の店員さんの接客がとても素敵だった。
若い女性だったが、眼鏡に対する知識と情熱を感じさせる方で、
私の視力を細かく分析してくれ、他社製品である今の眼鏡の付け心地も
丁寧にヒアリングした上で、新しい眼鏡のレンズやフレームを調整してくれた。
レンズの汚れ防止のスプレーなどのオプションもとても楽しそうに紹介してくれるので
千円程のスプレーを予想外に追加購入してしまったほどだ。
眼鏡を買う事は決めた上でお店を訪れたが、この人から購入出来て良かった、と思った。
帰り際「気に入って頂ける眼鏡を心を込めて作らせていただきます!」と言ってくれた。
気持ちのいい接客って、やっぱりいいなぁ。
こういう買い物が時々あるから、全てをネットで済ませる事が私は出来ない。

【久しぶりの夫婦でお出かけ】
久しぶりに夫の丸一日休みがあり、夫婦で買い物に出掛けた。
この数ヶ月、彼は本当に忙しかった。
「忙」しいとは「心」を「亡くす」と書く、とはよく聞く話だがまさにその状態だった。
「明日休みだ」と言われた日も私が起床する時間にはとっくに起きてPCに向かっていた。
気晴らしに外出に誘っても、外出先でカフェなどに入って仕事をする時間が必要だった。
そんな彼が、昨日は珍しく私より寝坊して出掛けようという。

自宅から車で片道40分程の距離。大した外出ではない。
買い物をして、美味しそうなお店に行って、行った事のない場所に行く。
車内では好きな音楽を聞いて、他愛無い会話をして、フラフラを歩く。

帰りの助手席で、ふと「こんな時間もいつまでも続くわけでは無いんだ」と感じた。
つい先日、私たちは2人で話し合って一年以内に住む場所を変える事を決めた。
子供を持ち、家族を作る事という目標のために
親や親族や第三者や、とにかくもう少し自分達以外の人達の手助けが必要であり
その為に、仕事や住む場所を変えるといった努力や準備をしていかないか、
というのが夫からの提案であり、私も納得して2人で決めた。
もしかすると一年後、もしくはもう少し先かもしれないが
そう遠くない未来には、私たちは住む場所も、職業も、家族の形も変わるかもしれない。
夫と二人で車に乗り、気ままに街中を歩くという過ごし方は、
「日常」から「過去の想い出」になる日が遠くない未来に来るかもしれない。
そう考えると、静かな田舎の景色も全て愛おしく、とまではならないが、
今、この土地で見れる景色はなるべく見ておきたいなと感じた。

【1月19日】
1月19日は友人の誕生日だ。
私と彼女は0歳児からの付き合いなので、お祝いを伝えるのも20年以上続けてるだろう。
今朝も早速、お祝いのラインを送った。
ラインのスタンプ1個でも毎年お祝いをする日なので、
ブログにも鬱なコミュ障の事を書くのは気が退けたので、やめた。
きっとこれからも1月19日は私にとって、おめでとうを言う日である。そうでありたい。
願いも込めて今年始めた「5年手帳」の今日のページに「○○ちゃんの誕生日!」と書いた。


2週間後の私は、仕事に行って働く予定だ。
あと2週間、楽しい予定もいくつか入っているけれど
そろそろ真面目に朝起きるところから始めてみよう。

2018年1月16日火曜日

滋賀・大津~日本の情緒を感じる旧竹林坊~

延暦寺と日吉大社を旅の目的にしていた滋賀県大津市だったが、
宿泊先のスタッフに薦められた元里坊の旧竹林院にも足を運んだ。
ここで予想以上に感動して沢山の写真を撮ったので、記録に残しておく。

旧竹林院は日吉大社の鳥居(受付)の目の前にある。
参拝した後その足で立ち寄れるのが良い。


もとは延暦寺の僧侶の隠居所として建てられた二階建てのお屋敷と日本庭園。
入園料で建物内とお庭の見学が出来、有料でお抹茶を楽しむことも出来る。

主屋も庭園も、随所に日本の情緒や風情が感じられ、心が洗われるようだった。



私達は宿泊した星野リゾートロテルド比叡で宿泊者限定のティーセットをいただいた。
(ホテル滞在中に予約する制度)
番茶を日干しした「日干番茶」とほうじ茶のガレット
日干しした茶葉は香ばしかった。

1階から窓越しに見る景色は、窓枠が額縁のようで絵画を見ているようだった。

2階も見学可能。ここからは庭全体が見渡せる。

1階から見た時よりも奥行きがあって力強さを感じる。
私に文才があれば素敵な俳句でも出来そうだが、考えてみたけど出来なかった。


室内の設えにも日本らしさを感じられる。
それぞれに日本ならではの文化や意味が込められているので、
海外旅行者と一緒に来たら、プレゼンテーションしたい事があり過ぎるくらい。


お茶を頂いた後、お庭をお散歩。


お庭はかなり広く、またそれぞれの場所で見える景色が違うので
立ち止まって写真を撮ったり想像力を働かせてストーリーを考えたり。




昔の人達は、季節の移ろいを楽しみながら時間を過ごしていたんだろうな。
私は普段、自然を見る事もせずに目の前のデジタルの世界ばかりに時間を使って
なんて陳腐なんだろう、と思いつつもアイフォンで写真を撮る。
現代に生まれたのだから現代を楽しませて頂こうと思う。

夫は苔への興味津々で、ズームにして苔ばかり撮っていた。

私にその魅力はわからないが、一応苔ゾーンも撮ってみた。

予定していたより長い時間滞在して、大津市を後にした。
旧竹林院は日吉大社の目の前なのだが、そこから坂本駅までの門前町も
古い街並みが残っていて、ふらっと歩いてみるのも楽しそうだった。

大津で観光をした私が一番感じた事は、古い建物が沢山残っていて
観光するポイントが沢山あるのに人が少なくゆっくり過ごせるという事だ。
同じ日に京都市・嵐山エリアにも行ったが、人が多くて思うように動けない。
昨年の秋にはお寺巡りの旅行もしたが、人が多くて流れて行くように見物した。
私のような人ごみが苦手な人間には、人の多さでテンションが下がってしまう。

一方で大津は、観光客、特に海外旅行者の数が京都に比べて圧倒的に少なく感じた。
京都駅から電車で10分の距離なのにこの差だ。
10分移動してこれだけネタ満載の日本らしい建物がゆっくり見れるので
私は是非この大津市の観光をお勧めしたい。

とゴリゴリ推しているが、私も夫も関西には縁があるのに
滋賀県を訪れたのは初めてだった。
祖父母がいる大阪に幼少期だけ訪れていた私はともかく、
夫は神戸に大学で4年間もいたのに!だ。(と自分を擁護してみる)
びわ湖はとにかく大きいし、観光資源豊富だからもっと賑わってほしい。

大津市駅はこじんまりとしているが、
新しくセンスの良い観光案内所があったり駅直結のカフェもオシャレだった。

駅直結のカフェ。奥には座敷席もあって、お子様連れが賑わっていた。
こんなオシャレなカフェ、家の近くに欲しい!

観光案内所で紹介しているクーポン。デザインも可愛くて思わず手に取ってしまう。

濃霧で断念したけれど、本来ならびわ湖が見渡せる「びわ湖テラス」のイメージ写真。
イメージ写真は夏だが、是非再訪したい。

海外からのハードルが高ければまずは日本人から!
京都もいいけど、ちょっと大津市まで足を伸ばしてみてよ、と言いたい。