2020年9月25日金曜日

子育ては答えの見つからない問いを考え続ける毎日

ワンオペの9月の4連休に疲れ切ったので、子供たちを連れて実家に行きました。

実家では私はお休みモード。

専業主婦のプロ(と私が勝手に呼んでいる)母に家事と娘の遊び相手をしてもらい、

私はただ息子の授乳をしてのんびり過ごし、買い物の一人時間を過ごさせてもらいました。


娘が産まれてから1年半近く実家に住んでいた事もあり、娘はじじばばっ子。

家の中を自由に動き回り、

じじには遊び相手(主にテレビの操作)を、ばばにはオヤツをねだるなど、

誰に何をお願いしたらいいのかもバッチリわかっています。

元気にしゃべって動いて大きな声で笑う娘を穏やかな気持ちで眺めながら、

ふとそんな娘の姿を見たのはとても久しぶりのように感じました。


それは、それだけ毎日のワンオペ育児に必死で私に余裕が無かったから?

もちろん、それもあるかもしれません。

でも、もしかしたら娘がこんなにはしゃぐこと自体あんまり無かったのかも。

そういう風にも考えられました。


実家から今の自宅に引っ越した数か月前、私はすでに息子を妊娠していました。

身重だからという理由が半分、娘の好奇心が旺盛だからという理由が半分で、

なるべく手出しはせずに娘にやらせる、初めてのことや助けを求めた時だけ手を貸す、

という事を心がけて娘と接していました。


その甲斐もあってか、ゴミ出し、簡単な食事、物を取ってくるなど

娘は色んな事ができるようになり色んな場面で私を助けてくれます。

最近はお腹が減ったり眠たい時間でも、息子のぐずりや授乳で私が相手をしていたら

黙って一人でおやつを食べたりテレビをつけてみたりする事も増えてきて、

私にとってはとても頼もしい存在になっています。


ただ、頼りにしすぎて無理をさせたり実は我慢させてしまっているのではないか?

娘自身の子供らしさを私がセーブさせていまっていないか?

実家で両親と無邪気に遊ぶ娘を見て、ふとそんな気持ちに駆られました。


二人育児は本当に難しいです。

下の子が産まれてからしばらくは上の子優先。

とはいえ、どうしても息子の側にいかなければいけない時もあります。

二人が同時にぐずっても私が一人である事は変えられず、

両腕のそれぞれに泣く子供を抱えながらしくしく泣く事もしょっちゅうです。

そんな時に、しくしくしている私を見て何かを察したかのようにぐっと涙を堪えて

一人遊びを始める娘に助けられているのは事実です。

息子が泣き止んだ後で娘の側に行って抱きしめてお礼を伝えるけれど、

彼女の気持ちを押し殺してしまっていないかときどき不安になります。


娘にもなるべく我慢や無理をさせたくない。

でも家に帰ると一日の大半の時間を親一人子二人で過ごす生活が待っています。

私が一人なこともどうしたって変えられない現実です。

娘の本音もまだ聞き出すことはできません。

というか、きっと彼女自身が成長しながら

新しい環境へ適応しようとしているのかもしれません。


そして、適応していかなきゃいけないのは私も同じです。

この家族のフォーメーションで私も娘も、そして息子も、

ちょっと我慢したり頑張るところと気持ちを発散させるところの

折り合いをつけていかなきゃいけないんだろうと思います。


きっと息子も、本人が感じているかは別として

「二人目」としてに適応していることがあると思います。


もしかすると、娘はじじばばの所だからと思いっきりワガママしてるのかもしれない。

そうだとしたら、彼女はすでに気持ちの折り合いのつけ方を心得ているのかも。

そんな風にも思えてきました。


答えはわかりません。

でも、そう思える間は時々こうして実家でじじばばと過ごす時間を作って

娘の気持ちを発散できる環境を作ることが私にできることかなと思います。

私も楽できるしね。


子育ては答えのないとっても難しい課題だと思います。

受験も、就活も、正面から向き合わずに横道からゴールした私でしたが

子育てのお陰でようやく自分や目の前の課題に向き合うようになりました。


きっとこれは、神様か誰かが与えた私への最大のミッションなのでしょう。

課題をクリアしていけば、今まで見た事がない景色がきっと沢山見れるはず。

だから私は明日からも悩んで考えて仮説を立てて前に進んでいきます。

2020年7月12日日曜日

変化の時代の中での、息子の誕生

2020年6月12日、第二子の男の子を出産しました。

予定日より5日早い12日の深夜に自宅で陣痛が始まり
病院に連絡するとそのまま入院、朝まで陣痛と戦いお昼前の出産になりました。
ちなみに今回も無痛分娩です。

息子が誕生して、あっという間に今日で生後1ヶ月。
3時間ごとの授乳やオムツ替えのための睡眠不足と闘いながら
1歳8ヶ月になったオテンバ娘に振り回されつつ、新生活をスタートしています。

コロナ禍での出産

息子の出産を語るうえで外すことが出来ないのはやっぱりコロナ禍であった事です。
私が出産をした6月は緊急事態宣言こそ解除されたものの、病院はまだ厳戒態勢。
母親学級は中止、検診時の家族の同伴や出産時の立会い・面会は出来ませんでした。

検診に通う間にそれらの案内を見て覚悟はしていたものの、
6月も厳戒態勢の継続決定と聞いた時は不安と残念な気持ちでいっぱいになりました。

その時点で夫はまだ検診に同席していなかったので
エコーで我が子を見る事が出来ないどころか初対面は退院後になる。
親はもちろん、友達の面会も来てもらえない
(それが楽しみで地元の病院で産む事にしたのに!)。
そして何より、娘と退院まで会えない。
入院は1週間(病院の方針で長めの入院期間でした)。
娘が産まれてからそれほどの期間を離れて暮らした事はありませんでした。

…と、一時は不安で暗い気持ちになりましたが、受け入れるしかない(当たり前ですが)。
第二子と二人っきりで過ごす入院生活を思いっきり楽しむように気持ちを切り替えました。

第二子が産まれる事で娘と過ごす時間が減るだろう事は前回のブログでも書きましたが
それは第二子である息子にとっても同じではないか!
一時的に一人っ子だった娘と違って息子は生まれた瞬間から「弟」で「2人目」。
もしかして、息子「だけ」を一日中見る時間ってこれからほとんど無いのかもしれない!
(私が一人っ子なのでこの辺りも全て想像でしかないのですが。)

そのことに気づいてから、息子と二人っきりで(ある意味で外の世界から隔離されて)
過ごす入院生活がとても楽しみになりました。

また、前回の出産では産後で気分がハイになり初日に寝付けず、
入院期間は睡眠不足と初めての育児がしんどくて毎晩泣いて過ごし、
退院直後に自宅で貧血で倒れかける、という痛い経験をした反省があったので、
面会が出来ないならと、自分の体の療養にも集中することにもしました。

入院期間中、思う存分息子を眺めて触って抱きしめて、
眠いと思ったら本能のままに横になり、ご飯をもぐもぐ食べる。
スマホ依存症の私が時にはスマホをフライトモードにして
育児以外の事に使うエネルギーを最小限にしました。

状況を受け入れて割り切った入院生活はなかなか充実した時間になりました。
情報を制限(時には遮断)する事で
目の前の小さな産まれたばかりの息子とじっくり向き合えたと思います。


思い出される娘の育児

息子に一心に向き合いオムツ替えや授乳や抱っこといった息子の育児をしながら
真っ先に思い浮かんだのは、同じ頃の娘の事でした。

娘と比べて息子の方がオムツ替えが多いとか、抱き心地が違うとか、
娘の時は母乳がなかなか出なかったけど今回はすんなり出たなーとか、
小さかった当時の娘への慈しみの気持ちと同時に感じたのは
当時の自分が感じていた育児への不安が無くなり自信へ変わっている安心感でした。

第一子である娘の育児は何をするにも不安と心配だらけ。
何がわからないのかすらわからず、経験者の友人にどう聞いたらいいかもわからない。
疑問にぶち当たったらその度にネットで検索して試してみる…の繰り返しでした。

娘0歳、母も0歳からスタートした初めての育児の経験は
不安と心配を抱えながら試行錯誤の連続でしたが
今度は息子0歳だけど母は1歳。
娘と得た経験や実績が私をちょっと強くして自信と余裕を与えてくれました。

始めは眠くて疲れもたまってしんどいけど、成長していく楽しさ
出来る事が増えていく喜びを知っているから頑張れる。
0歳児だけの可愛さもより一層いとおしく思えます。
そう思えるのもたくさん悩んで葛藤しながら初めての子育てに奮闘した自分のおかげ。
当時の自分によく頑張ったね、ありがとう、と言ってあげたいです。

これは、兄弟育児の楽しさの一つなのかもしれません。
3人目の子供を産んだ人が「3人目の育児は楽しさでしかないわよー」と言っていて
「この人はスーパーマンなのか!?」と思っていたのですが、
今なら気持ちがわかる気がします。

とはいえ母はまだ1歳8ヶ月。
これからたくさんの初めてを経験する中で、まだまだ悩んで試行錯誤していくでしょう。
でも、それは不安を自信に変えていくためのステップ。
そしてその経験は2人の子育てをもっと楽しくしてくれる気がしています。

想像と全く違った出産で得られた穏やかな時間

コロナ禍で息子と私の生活のスタートは、当初の想像と全く違うものになりました。
私にとって人生最後となるだろう出産(…の予定。あくまで予定ですが)。
マタニティフォト、娘と親子3人での旅行やお出掛け、出産直後に撮りたい写真、、、
やりたい事が沢山ありました。
それは2回目の余裕から、出産をイベントとして
どう楽しく思い出に残すかと考えている部分があったと思います。

ところが、この数ヶ月で世の中が予想もしていなかった方向に一変して、
私自身の価値観も出産の環境も変化して、
妊娠後期も出産もとても静かで穏やかな過ごし方になりました。
それは、私が自分と子供の事をしっかりと見つめて考えを整える時間となりました。

まさに世界史に残るような変化の年に
1歳8ヶ月の娘と親に新しく加わった0歳の息子。
まだまだ始まったばかりの新生活ですが、
試行錯誤しながら私たちらしい生き方を切り拓いていきたいです。


少しずつ息子に距離を縮めていく娘。どんな姉弟になっていくのか楽しみ。
少しずつ息子に距離を縮めていく娘。
どんな姉弟になっていくんだろう。

2020年6月11日木曜日

妊娠39週に思うこと【1歳7ヶ月差2人育児】

第二子の妊娠が39週に突入しました。
昨日から体の様子が明らかにそれまでと違っていて、そろそろ降りてくるか!と身構え始めました。

いつも以上のお腹の張りや骨盤の痛さ、空腹と関係ない気持ち悪さ…
そして、一番違うのは第一子である1歳7ヶ月の娘の私への執着。

これまで、私がいなくてもじじばば(私の両親)がいればオッケーだった娘が、昨日は食事中を除いて私にべったり。
試しに「赤ちゃんもう出てくるかな?」と聞いても無反応(当たり前か…)。
でもやっぱり、昨日までと接し方が明らかに違う。
子供なりに何かを感じているように思えて仕方ありません。


私はとにかく兄弟が欲しかった

第二子の妊娠は、私たち夫婦には結婚した当初からの夢であり、
何度も話し合ってスケジュールを話し合いながら実行された家族計画でした。

一人っ子である私は兄弟への憧れが幼少期からずっとありました。
というより、一人っ子であることが寂しくてコンプレックスでした。

我が家は父が昼夜関係ないシフト制の仕事で不在が多い上に休日も家族サービスをするタイプではなく、お出掛けも旅行も母と二人が当たり前でした。
地域的にも時代的にも周囲は子供が二人以上で家族仲が良い家庭が多く、みんな友達付き合いより家族優先。いくら一緒に遊んだり出掛けても友達では超えられない一線がある事を子供ながらに感じていました。
私自身が集団行動が苦手で外でわいわい遊ぶより家の中で遊ぶ方が好きだった、という事も一因だったと思います。
でも、一人で読書やゲームに夢中になり、終わっても一人。家の中にいるのは大人だけ。
そういう環境を寂しい、と私は感じていました。

だからと言って、一人っ子がみんな寂しいは言いません。
一人っ子でも幸せで満足な人生を送っている人もいるし、一方で兄弟がいる事で悩んだりストレスを感じている人も知っています。
家族の関係性や性格や周囲とのかかわりや、個人の環境次第だと思います。
ただ、私はずっと寂しかったし、兄弟への憧れは大人になっても変わりませんでした。

だから、自分の将来をイメージするときに、私にとって
「子供を育てる」=「2人以上育てる」が当たり前になっていました。
例えそれが自分の子供でなくても。2人以上が絶対条件でした。

幸い、夫は2人兄弟の弟で兄弟育児には肯定的でした。
「将来子供は何人欲しい?」とカップルの空想話で質問をした時にその事がわかり、それならこの人と結婚できるなとホッとしたものです。
自分達の年齢や経済的状況も踏まえて2人を目標に、年齢差も2学年くらいで、と話し合って第一子の妊活をスタートさせました。

そして、第一子である娘を授かり、その後思い描いていたタイミングで第二子も授かることが出来ました。

葛藤だらけだった第二子妊娠期間

第二子の妊娠期間の10ヶ月は色んな想いが巡りました。

憧れの兄弟育児が出来る喜び。
お揃いの物やお下がりをあげる楽しみ。
兄弟げんかをなだめるのだって、私にはやってみたい憧れの事の一つです。

その一方で、私の妊娠で1歳そこそこで抱っこをはじめ色んな事を我慢させてしまった娘への申し訳なさも大きかったです。
特に妊娠初期は悪阻からの倦怠感で娘に十分に構うことが出来ず、遊んでほしくてぐずる娘を抱きながら泣いた事もありました。

1歳そこそこの娘に「赤ちゃんがいるよ」と言っても理解して泣き止むわけではない。
「兄弟が欲しい」というようなことを言われたわけでももちろん無い。
娘はただただ母親である私を求めているだけなのに、甘えたいだけなのに、2人目が欲しいという私のエゴで我慢をさせてしまっているのかな…
娘の寝顔を見ながら自分を責める夜は何度もありました。


前を向かせてくれるのも子供

そんな私を慰めてくれるのもまた、娘でした。
1歳2ヶ月で歩くことを覚えたら家の中でも外でもどんどん一人で歩いていき、
単語を覚えたら自分の要求を伝えたくて欲しい物の名前を言い続ける。
彼女は1歳なりに出来る事を全力でやっていて、その姿が私にはとても逞しく写りました。

私も、出来る事をやればいいんだ。
そう考えられるようになってから、とても気持ちが楽になりました。
一緒に走り回れなかったら、娘が一人で走り回れる広い場所に行けばいい。
本を読んだり絵を描いて一緒に遊ぶことだってできます。
それでも泣き止まなかったら、お菓子をあげたりアニメに頼ったっていいじゃん。
出来る事で全力で娘に愛情を注げばいいんだ。

そう考えを切り替えて娘と接していく内に、今度は娘の方から私に抱っこをせがまなくなったり、色鉛筆やクレヨンを差し出してくるようになりました。
一方で父親(夫)がいる時は全力で駆け回り、ボール遊びやおんぶをせがみ、喋らない子供にも伝わっていることを気付かされました。

子育ては不思議体験の連続

「子供が親を育てる」という言葉は色んな所で聞くけれど、本当にそう感じることの連続。
私は娘が産まれてから180度というほどに価値観が変わったし、強くなったと感じます。

やんちゃな娘がお腹を蹴ったり叩いたりしても、順調に育っていく第二子もまた、私にエールを贈ってくれているようで頼もしい存在でした。

もうすぐ始まる二人の子育て。

こうなったら母さん、やるっきゃない!
日々活発になる娘とどんどん重くなるお腹を抱えながら、私は今日も自分を鼓舞するのでした。

もうすぐ家族のアップデート
もうすぐ我が家のアップデート
慌ただしくも新鮮な毎日が始まりそう

2020年5月29日金曜日

最後の3週間から見えてきた一番大切なもの


昨年9月から5ヶ月間、コーチングスクールに通いました。

コーチングとは…
クライアント(コーチングをする相手)が目標に向かって行動できるように導くためのコミュニケーションです。私が通ったスクールではコーチングを子育てに活かせるようになろうという目的のママ向けのスクールでしたが、アドラー心理学などコーチングの知識を基礎から学べるスクールでした。(ブログの最後にスクールの紹介もあります。)

コーチングではクライアントの目標や価値観を受け入れる「他者受容」が大事なのですが、そのためにはまずコーチである自分自身が「自分を受け入れる」=「自己受容」を出来るようになる事もとても重要です。スクールの中でも、色々なワークを通じて自分の価値観や認知を知って、自分を整える事に多くの時間を使いました。

そのワークの中で特に私の印象に残っているのが「3週間後の死」というものです。

ちょっと重いテーマなのですが、文字通り「自分がもし3週間後に死ぬとしたら?」を想像して一日単位でやりたい事を書き出していきます。


”3週間、21日、、、結構あるなぁ”

1日目から21日目まで日付が並んだワークシートを見た時に私が初めに感じた事です。

「何の制約もなく思い浮かぶままに書いてみましょう」と言われても、やりたい事がなかなか出てこなかったのです。

行きたいと思っていたエアーズロックには行っておこうかな。それで10日は使えるな…
見られて恥ずかしい写真とか処分しておこう…これで2日くらいつぶれるな…
好きなGLAYのライブにはいったらまた行きたいと思ってしまうからやめておこう…
友達には、、、会ったら泣いちゃいそうだからやめておこう
何か最後に伝えたい事がある子には手紙を書いておこうかな…

じゃあ逆に手紙で伝えたい事がある人は…?
親には先に死んでごめんね、くらい書いておこうかな。
13歳年上の夫には「(私の方が若いから)あなたの介護は任せて!」と言って結婚した手前、お詫びと子供の事とか引き継いでおかないとな。

と、こんな感じで絞り出すように、少しずつやりたい事を書き出していきました。

ちなみに、やりたい事を書き出すことで自分にとって大切な事が何かを知ることがワークの目的なので、実現可能性(例えば航空券が手配できるかなど)は考えません。

この時点でワーク最中の部屋の中には他のスクール生がすすり泣いているような声も聞こえてきました(自分自身と向き合う為に背中を向けて顔を合わせない状況で書いています)。

日常生活を健康的に送っていたら、自分の死なんて普段はなかなか考えません。
まして、3週間後に死ぬとして何をする⁉なんてなかなかハードな作業です。
不安や恐怖、寂しさを感じるのは当然ですし、想像とは言え「死」のへ抵抗感もあると思います。

でも、私はなんとなく淡々とタスクを書き出している感覚でした。
飛ぶ鳥跡を濁さず、ではないのですが
「どうしたら家族の手間(遺品整理など)を最小限に出来るか」
「関わった人たちに気持ちの負担をなるべく小さく出来るか」ばかりを考えていました。


けれど、ペンが止まったのは娘の事を考え始めた時です。

その当時の娘は1歳になったばかり。一人ではまだ何もできません。
もし私が今死んだら、この子の記憶には残らない。母親を知らない子になるんだ…
きっと寂しい思いをさせてしまうと思うから、大きくなってから読めるように手紙を書いておこうかな。

どんな手紙を書こうかな…
夫に読んでもらえるようになる数年後の娘を想像して、、、
1人で読めるようになる十数年後を想像して、、、
恋をしたり生き方に悩む二十数年後を想像して、、、

と具体的に手紙の内容を考え出した時、私の感情が大きく動きました。


”…いやだ!
想像なんかしたくない!私は娘の成長を全部自分の目で見たい!”


”娘が一人で歩いて、言葉を話す姿を自分の目で見たい。
怒ったり悩んだりする姿も見たいし聞きたい。
たとえ反抗的な態度を取られたり、娘の言葉に傷つけられてもいい。
それでもいいから、私は娘の成長を自分の目で見たい!!!”

それまで淡々と作業していた私の心の中からそう強く叫ぶ声が聞こえて、すーっと涙が溢れてきたのです。


すると、3週間後の死を考えることが途端に怖くなりました。


そして、たぶん生まれて初めて強く思いました。
「自分の人生を生きたい」と。


というのも、それまでの私はネガティブな思考で昔から(記憶にあるのは小学生の頃から)「自分の人生なんてどうでもいい」と考えていました。
…と言いつつ見かけや人の評価は気にするし自分も人を評価するし、無茶は嫌いで危ない橋は渡りたくない、、、矛盾していると自分で思うのですが、それでも「どうせ私なんて…」と自分の人生を諦めて投げやりに考えていたのです。

それが、3週間後に死ぬとしたら…と具体的に想像する事で、自分が我が子の成長を見たいと思っている事に気付き、初めて自分の意思で「自分の人生を生きたい」と思ったのです。

それは、我が子を立派に育てたいとか、導きたい、とかではなく、
子供の為なら自分の命をなげうってでもいい、でもなく
我が子という一人の人生に伴走するように一緒に生きていきたい。
親という特等席で娘の成長を見守る一番のサポーターでありたいと思ったのです。

自分の人生最後の3週間でやりたい事を考えるって特別難しい事ではないのですが、このワークで私は自分にとって一番大切な事とどう生きていきたいかに気付く事が出来ました。


大切な事が分かってから、ありたい姿がはっきりと想像できるようになりました。
そして、あらゆる選択に迷いなく、納得感を持って決断できるようになりました。

例えば、私はずっと「働く女性」への憧れが強く、自分のキャリアが出産や育児で止まっている事に対して焦り、キャリアを積み上げていく同世代の女性たちを羨み、時には自分を慰める為にマイナス探しをしていました。でもこれってすごく虚しいんです。

それが「私は生きて子供の成長を見守りたい」と気付いた事で、育児に専念できる環境に感謝して毎日の娘との生活を楽しめるようになりました。

昨今のコロナ禍を穏やかな気持ちで過ごせたのも、この気付きの影響が大きかったです。

では、子供の良き伴走者として成長を特等席で見守るためには、これからどうしていこうか?
これが今の私の課題であり、思い描いている未来です。


子供の成長を隣や一歩後ろという特等席で見守っていきたい。
1歳7か月になった娘とお腹にいる第二子どちらに対しても同じ気持ちです。


私が半年間で沢山の学びと経験をしたスクール
「MUSE COMPASS ママコーチスクールBASIC」の紹介ページはこちらから
4月開講予定だった1期が、昨今の情勢を鑑みて7月スタートに変更になっています。
それに合わせて、お申し込みも6月20日まで延長になっています。

\興味がある方は是非HPまたは私に直接お問い合わせください/

2020年5月26日火曜日

2020年2月、一冊の本を手放した

20202月、私はある本を手放しました。

 

それがこの本です。


この本を買ったのは3年前の秋。

私は当時職場の環境や人間関係に適応できずうつ状態になり、夫に付き添われて診察を受けたメンタルヘルス科で医師から発達障害(ASD:自閉症スペクトラム障害)の可能性が高いと言われ、その病院の帰りに寄った本屋で買った本です。

それまで断片的にしか知らなかった発達障害でしたが、この本を読めば読むほど、自分に思い当たる事が多く、それまで感じていた言葉にしにくい「生きにくさ」の答えが見つかったようでとても救われた気持ちになりました。

 

結果的にその後に受けた心理検査で明確な数値は出なかったのですが、医師の診断は変わらずうつ病ではなく生まれ持った性質によるもの。その為に抗うつ剤は処方されず、心理療法・認知療法での治療がそこから始まりました。

発達障害でも知能指数が低くないと、生きにくさやストレスを感じながらも成長過程で周囲の人たちに合わせて言動を変える、いわゆる空気を読むということを学んでいき、自分が発達障害と知らずに大人になり、検査でも数値が出ないという例はよくあるそうです。いわゆる「グレーゾーン」というやつです。

グレーゾーンであっても本に書いてある事に強く共感する事には変わりなく、それからこの本は私の心の支えであり、自分の気持ちを保ちながら社会生活を送れるかを知るための教科書のような存在になりました。


それほど自分にとって意味のある本をどうして手放すことが出来たのか?


それは、私がありのままの自分自身の事を受け入れられるようになってきたからです。

 

グレーゾーンの診断後、通院を経て職場復帰をして、それまでと同じように友人に会ったり外出したりする生活が出来るようになりました。私にとってとても大きな出来事である、妊娠・出産も経験しました。それでも、やはり私は自分を好きになれなかったし、自分の言動に自信が持てませんでした。

壁にぶつかり悩む度に、この本を開いて読んで解決方法を探り心を落ち着かせていました。グレーゾーンである事にも悩み、専門機関の診療を真剣に考えていた時期もあります。


それでも、もうこの本は私にとって必要ないから手放そう、と思えるようになったきっかけは、昨年通ったコーチングスクールでした。


コーチングは、クライアント(コーチングをする相手)が目標に向かって行動できるように導くためのコミュニケーションですが、クライアントの目標や価値観を受け入れるためにはまず「自分を受け入れる」=「自己受容」が必要になります。

私が通ったスクールでも、色々なワークを通して過去・現在・未来と色々な角度から自分を見つめなおして自分を受け入れる事をしていきました。


その結果、私自身が今ある自分をそのまま受け入れようと思えるようになってきたのです。

そして、自分のダメな所や苦手な事を「私はこれもあれも出来ない」とマイナスに考えるのではなく、今の自分で何が出来るか?どんな事でより成長していけるか?とプラスに考えられるようになり、その上で私は何がしたいか?と考えられるようになりました。

今の自分を突き詰めていくより、未来に向かって自分を受け入れられるようになりました。


特に、もっと知りたいと思っていた自分の発達障害についてもこれ以上調べなくてもいいかな、と思えたのは自分でも驚くほどの変化でした。

発達障害かも、というのは私の特性の一つだと思っています。

でも、今はそれを深く追求していくより、私自身が持っている特性を活かして私がやりたい事をやろう、なりたい自分になっていこう、と思えるようになりました。


その気持ちの変化の表れの一つが、心の支えでもあった本を手放す事でした。


手放したら、また一歩前に進んだようで気持ちがすっきりしました。

断捨離や処分というよりは卒業といった方が当てはまるかなと思います。

処分の方法も、メルカリで売ったのも良かったです。古本屋でまとめ売りするよりも次に必要な人に届けられた気がして、私の心の支えだった本が次の誰かの役に立っていたらいいな、と思っています。


このブログの前回の更新から約2年。

その間に色んな環境の変化がありました。出産・引っ越し・初めての育児・また引っ越し、そしてまた妊娠…

そしてコーチングを学ぶ機会を得て、沢山の意識の変化がありました。

第二子の妊娠も37週を迎えて、まさに出産を目の前に控えながら、コロナ禍という社会的な環境も影響して、日々色んな事を考えています。

そしてそのうちに、この数ヶ月間に私自身が変化した事や、今考えている事をまたいつか読み返せるように書き留めておきたいと思うようになりました。

そして今の私が残す言葉は、誰か、もしかしたら数年後の自分にとって何かのプラスになるかもしれない。

そう思ってとても久しぶりにブログを書きました。

いつまで続くかわからないけど、少しずつ書いてみようと思います。


______________

私が半年間で沢山の学びと経験をしたスクール
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4月開講予定だった1期が、昨今の情勢を鑑みて7月スタートに変更になっています。
それに合わせて、お申し込みも6月20日まで延長になっています。

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2018年5月29日火曜日

自分に正直に生きる事の難しさ

勝間和代さんが同性との交際を公表されました。

同性を愛するということ 勝間和代のカミングアウト https://www.buzzfeed.com/jp/daisukefuruta/katsuma-masuhara?utm_term=.oubE8ar7G

私は最近になって勝間さんのロジカル家事の本を読み、自分自身の判断基準をしっかりと定めてそれに沿って行動する生き方とと相反するように会話のように親しみやすい文章に感銘を受けて「カツマー」になりつつありました。
そんなタイミングのニュースだったので、夫が休憩中にわざわざ「勝間さんがネットで話題になってるよ」と知らせてきたほど。

ご自身のプライベートを告白する事は勇気が必要だったと記事でも仰っているが、本当にそうだったと思う。
「私が好きな人と好きなように過ごして何が悪いのよ」と思っていても、告白する事で他人からの接し方が変わるかもしれない、覚悟はしていても傷付く言葉をかけられるかもしれない、そういった言葉や態度が自分の知らない所で自分の大切な人を傷つけてしまうかもしれない、等と考えると疑惑を持たれたとしてもわざわざ公表しなくていいのでは、と考えた事もあったのではないだろうか。
それでも勝間さんは公表した。自分を勇気づけてくれた人たちのように、自分の行動が誰かの勇気につながればという思いから。
勝間さんの意図の通り、いろんな人の考えるきっかけになって誰かの勇気に繋がったらいいと思う。

私が同性愛に対して考えるきっかけになったのは、高校生の時に出会った一人の男の子だった。一学年下だった彼は皆で放課後を一緒に過ごす仲間の一人で、その中でも私たちは特に気が合って二人でいる時間も多くなった。
彼から同性(男性)が好きかもしれない、と告白を受けたのは、知り合ってしばらく経ってからの事だったと記憶している。もともと中性的な彼の告白に私はさして驚きはせず、むしろ腑に落ちる事の方が多かった。彼の告白をすんなり受け入れ、私は彼の唯一の恋愛相談相手になった。けれど、この時私は彼の事を、正確には彼の苦悩や葛藤は一つも理解していなかったと思う。

2人だけでコイバナで盛り上がっているうちはよかった。今日は何回目が合ったとか会話したとか、相手とどんなデートがしたいと妄想してはしゃいでいる内はそれでよかった。次第に彼は自分の気持ちを抑えきれず、告白をしたいと言い出した。うまくいく可能性が低い事はわかっているけど、気持ちを発散したい。もしかしたら、0.001%でも可能性はあるかもしれない、と。
真剣に相談する彼に、私はどうアドバイスしたらいいのかわからなかった。異性への告白だったら、頑張れ!とか当たって砕けろ!とか言えたかもしれない。でも、それは言えなかった。告白した相手が、彼の事をイロモノ扱いして同級生に広めるかもしれない。同性に恋愛対象として見られている事にショックを受けるかもしれない。そして、彼にひどいことを言ってしまうかもしれない。私はとにかく、自分の大切な友人が彼自身の潜在的素質が原因で傷付く事が怖かった。
好きな人に好きと伝える、そんな当たり前の事が当たり前に出来ない。彼は何か意図があって男性を好きになった訳ではなく、そういう性質で、その自分の素直な気持ちに気付いただけなのに。その時、私は初めて彼が抱えている、そしてきっとずっと抱える事になるだろう苦悩や葛藤の辛さを理解したのだった。

結局、彼は私が的確なアドバイスを見付ける前に好きな人に告白をした。結果はノーだったが、相手の少年もとても理解のある人で、彼にひどい言葉もかけなかったし、同級生に広めたり、彼が学校に行きにくくなるような事にはしなかった。
初の失恋を経験は、彼に自分の性的嗜好をはっきりと認識させるきっかけになったのだと思う。それから彼は自分の生き方を悩み、同じ気持ちを理解しあえる相手を求めて色々なコミュニティに参加したりし始めていた。アンダーグラウンドな世界に足を運び、心許せる人との出会いもあったけれど、怖い経験もして挫けそうにもなっていた。
私は話を聞く事しか出来なかった。彼の他に同じような人は身近にいなかったし、私自身が同性愛の友人がいる事を自分の周囲の人たちに言えず、彼へのアドバイスを相談する事も出来なかった。当時、レインボーパレードのような参加しやすいイベントがあれば、もしくは私が知っていたら、一緒に参加してみようと行動が出来たかもしれない。10年くらい前の事だけど、当時はそういった情報はまだまだ少なく、その環境で私は彼の為に立ち上がる事が出来なかったのだ。

お互いに大学に入って地元を離れた事もあり、次第に疎遠になってしまったが、私は今でもセクシャルマイノリティの話題になると彼の事や、彼と話したたくさんの事を思い出す。この10年で社会は変わって、少しずつだけど彼らが自分に正直に生きる環境が作られつつあると感じている。それでもまだまだ、自分の気持ちを正直に表現する事は勇気がいる事なんだ。勝間さんの告白の記事を読んで改めて思った。
あらゆる人が自分に正直に生きられるように、もっともっと少しずつ色々な人の考え方が変わっていけばいい。私もせめて私の周囲にいる人達くらいは、正直に生きられるような環境だったり雰囲気を持てる人間になれたらいいなと思う。
そんな事を、勝間さんの記事を読んで考えさせられた。

2018年5月25日金曜日

お腹と足の話

31歳。妊娠しました。
まもなく18週。5ヶ月目真っ最中です。

もちろん妊娠は5ヶ月前に発覚していたのだけど、家族以外の人々にいつ・どのように伝えるのがわからず直接会う人や、言わなきゃいけない状況になった場合だけさらっと伝えて5ヶ月を過ごしました。
この「言わなきゃいけない状況」の見極めが難しかった。

そもそも私は今、生まれた土地でも学生時代を過ごした場所でも無く夫の仕事にくっ付いてきただけの縁も馴染みも無い土地に住んでいて、夫と職場の人を除くと会おうと思って時間と労力を割かないと会えない(もちろん金銭的負担も相当大きい)。
そんな中でも、旅行がてら会いに来てくれる友人や、次地元に帰ってくれるタイミングを探ってくれる友人には、予定がドタキャンになるかもしれないという可能性も含めて妊娠を報告できるけれど、そうじゃない人達にはどう伝えていいのかわからなかった。

というのも、妊娠ってそれだけ悩むほどデリケートな話題だと思うから。
特に初期は、妊娠が継続できる確率がまだまだ不安定でそれに伴って自分の精神状況も非常に不安定だった。中期に入り、流産の確率が統計上は低くなっても、安全に生まれる可能性は100%ではない。
更に、妊娠報告は受け手側の気持ちも様々だと思う。私自身、20代後半頃から同世代の結婚・妊娠報告を聞くと多少なりとも焦りを感じた。誰にというわけでは無いが「あなたはどうするつもりなの?」と問われているような気持にもなった。プロポーズされた報告や引っ越しした報告とは訳が違う。

そんな訳でしばらくは言わなきゃいけない状況に陥らない場合は公表していなかったが、体調が安定するに伴って自分のメンタルが持たなくなってきた。
言わなきゃいけない状況ではない場合は妊娠の報告をせずにラインのやり取りをする。インスタやコメントでやり取りをする。当たり障りない返信をする。私にとって今一番のトピックは妊娠で、食事・睡眠・外出といった基本的生活をするにも、先の計画を立てるにも、キャリアプランを考えるにも出産と子供の事は切り離せないのに、私はそれを相手に伝えていない。嘘をついているような、相手を騙しているような気持になり辛くなった。(本当は嘘をついていない。「最近どう?」と聞かれたら「妊娠した」と返答していた気がする。でもそもそも「最近どう?」ってあんまり聞かれないし聞かない。)

うすうす感づいていたけど、私は自分の事を知ってほしいかまってちゃんだった。言い訳をすると、かまってくれなくてもいいけど、知っててほしい、頭の隅に置いておいてほしい、くらいに。
それに加えて、隠し事が苦手だ。ASDの特徴でもあるけど、空気が読めない事に加えていっていい事悪い事の分別もつかない。自分が考えている事は何かに包んだりせずにそのまま伝えたい。

モヤモヤした挙句、先日安定期に入ったタイミングでインスタとフェイスブックで妊娠の報告をした。読みたくない人はすぐに画面を閉じられるし、コメントをしなくてもいい自由度が個別のやり取りよりいいかなと思い、SNSを使った。一方で個別にやり取りをする程ではないけど繋がってる人達への近況報告にもなるかなと思った。公開すると、いくつかのお祝いメッセージをいただいた。優しさが嬉しいと同時にくすぐったくもなって、やっぱり報告しなきゃよかったかな、とか面倒くさくても個別に報告すべきだったかな、とか面倒くさい感情も沸いたけど、一番は数ヶ月の悩みの種が無くなって、スッキリした。
やっぱり私は知ってほしがりちゃんなんだな。

ここ一ヶ月、ブログを開く気が起きなかったのも同じ思考からだった。言えないこと・書けないことがあるだけで、何を書いたらいいのかわからなくなる。書ける事だけ書く、というのは私にとってあまりに器用で難易度の高い事だった。
でもそのストレスから解放された私は、これからは包み隠さず思いのままに妊娠生活の事を書いていこうと思う。というのも、私自身が妊活をしていて、そして人に公表しにく妊娠初期のデリケートな時期に同じような状況の人が書いた記事を片っ端から読んで共感する事で自分の気持ちを落ち着かせていたから。知ってほしがりちゃんな上に知りたがりちゃんでもあるのだった。
知りたがりちゃんから少しばかりでも誰かの活力になればという気持ちも込めて、これまでの5ヶ月とこれから産むまでの記録を綴っていこうと思う。

蛇足だけど、妊娠して改めて気付いたことがある。
私の足首は象の足首にそっくりだった。甲が高くて幅が広い。足首が太い(きゅっと締まっていない)ので、ぼてっとしているのだった。
気付いたのは来月結婚式に参列するための靴を買った時。妊娠6ヶ月に入り体も重くなってくるので、お呼ばれ服に似合うけどヒールが低い靴を買いに行った時だった。デパートの靴売り場にも該当する素敵な靴は沢山あったけど、試着するとどれもこれも似合っていない。太い足首から続く傾斜のある足の存在感が強く、ヒールの無い靴がかすんで見えるのだった。足首や甲にリボンや紐の装飾がある靴は、太さが際立って見える。一言で言うとボテっとしていた。「これ、何かに似ているな」と鏡越しに映した横側からの自分の足首~足を見て思い出したのは、象の足だった。
そっか、私の足は象の足だったんだ。これまでスニーカーやブーツや、おしゃれをしなきゃいけない時は頑張ってそこそこの高さのヒールをはいていたから気付かなかったけど。肉付きの問題かと思って骨格を触ってみたりしたけど、体のつくりの問題でダイエットでカバーできる範囲ではないような気がする。
靴選びは苦戦したけど、2センチヒールのオシャレ靴をどうにか見付ける事が出来た。
が、子供の自分の足で立って歩けるようになるまでしばらくはヒールは封印する事になりそうだ。妊娠して直視した自分の足首の太さ。親が子供に教えてもらうことがたくさんあるとは言うが、産まれる前からの話らしい。お腹の中の私の子よ、ありがとう。