2018年1月22日月曜日

30歳、6年間の仕事を振り返る

自閉症スペクトラム(ASD)の可能性を指摘され、30歳は自分の事を振り返る年となった。
もう少しで31歳の誕生日を迎える事もあり、
過去を振り返って消化させるのも、そろそろ終わりにしようと思う。

ASDについて調べていくと向いている職業として紹介されるのは、
一連の作業を反復する事が多い事務職や技術職。自由な発想という意味で芸術職。
向いていない仕事には営業職や接客業と書いてある。
理由は、空気が読めず臨機応変な対応が出来ないから。

精神科の最初の受診の時、接客業に従事していた私に
医師はこれらの「向いている職業」への転職も一つの解決策として提案した。
けれど私はそれがなかなか受け入れられず、退職や転職に踏み出せずにいた。
私は接客が好きだった。
私は、6年間結婚式に関わる仕事をしていたのだった。
お客様に結婚式場の案内をしたり、式の為の打ち合わせをしたり。
一日に6時間近く喋り続けていた日もある。まさに接客業だ。

診断を受けてから、私はこれまでの自分の仕事を考えていた。
その期間の話を書いていこうと思う。

                                   

自分のコミュ障を自覚せず内定も先の予定も無く大学を卒業した私は、ウエディングプランナーになる事を決めた。

なぜウエディング業界だったのかは、いくつか理由があった。母親がブーケの仕事をしていたとか、イベントが好きとか、新卒採用をしているが離職率が高く慢性的な人材不足で中途採用に積極的(当時は)とか、国家資格などは無いけれど就業を目指した学校があるなど。そして、直感的にとても強く「これやりたい」「これしかない」と思っからだ。新卒の就活時もウエディングの会社は受けていたが、ことごとくお断りされていた。大学を卒業したばかりの自分では競争力が無いと考え、現場経験と知識を付けて中途採用されるために県内のホテルでアルバイトをしつつ「ウエディングプランナー養成学校」に通うことにした。

アルバイトを始め、養成学校に通い始めてから1年後、私はウエディングプランナーとして新しい土地での生活を始めた。それから結婚をするまでの約6年間、自然に囲まれたホテルのウエディング部門で初めて正社員として働いた。
7年間の変化や、仕事内容について書き始めるととてつもなく長くなるのと、自己分析という目的から外れるので、割愛。いつか機会があれば書きたい。

今は、なぜ私がウエディングの仕事を継続してやる事が出来たのか?という事をしばらく考えた事を、言葉にして残したい。そこに、自分がこれから働き続けるためのヒントがあるようにも思う。
簡潔に書くために、ASDの特性の3つのポイントに沿って振り返ってみる。


①人との関わり方が苦手で、社会的なやり取りが困難
(社会のルールにスムーズに適応できない。空気が読めずTPOに沿った行動が出来ない。など)

私は大学卒業後に通ったプランナー養成学校でメンターとなる2人の女性と出逢う。1人は講師で、業界歴が長く、現役のフリーランスのウエディングプランナーでもある。日本特有の結婚式の常識、業界の暗黙のルール、新人スタッフがどう立ち振る舞うべきかを授業という名のもとに事細かく教えてくれた。もう1人のメンターはスタッフで、プランナー経験もあり、主に就職のアドバイスをくれた。「私服可」の面接の時は、私が自宅で撮影したコーディネート写真をメールで送るとアドバイスまでくれた。
私が2人を信頼して憧れた理由は、2人がただの親切や善意では無く、理由と根拠を持って私に知識や技術を教えてくれた姿勢にある。2人にとって私は生徒であり、同時に顧客である。私が払った受講料への対価として、就職までのケアをするとはっきり言ってくれた。ケアの内容も感覚では無く、根拠を以って教えてくれた。これがプロフェッショナルの仕事だと見せてくれた。内定ゼロで社会に対して心を閉ざしていた私も、2人のプロとしての対応に心を開いて、目標を叶えるまで努力しようと思えた。そして、叶える事が出来た。今でも2人ともとても大事な存在だ。

養成学校で、一般常識・業界ルールといった広い知識は習得した私も、会社に入ればそれぞれのルールがある。入社当時は毎日が必死だったが、今振り返ると、空気が読めない私は勤務開始当時は色々とやらかしていた。けれど、時期外れに中途で入った当時一番年下の私に、周囲の先輩達が本当に親切にしてくれた。注意をしても見捨てずに、私を育ててくれたのだ。ウエディング業界で働く人は、全体的に人間好き・観察力がある・世話焼きな人が多いとは言われるが、それにしてもいい人たちに出会ったな、と今になって感じる。

→暗黙のルールやTPOを空気を読んで察する事は苦手だが、社会のマナー、会社の規則、仕事上の決まり事として教えてもらえれば、理解して習得する事が出来た。教えられる事やルール通りの行動する事は得意だ。


②コミュニケーションが困難
(言外に込められた意味をくみ取る事が苦手。言葉をそのまま受け取る。など)

ウエディングプランナーにはお客様の要望を「聞く」能力だけでなく、表には言いにくい事も「聞き出す」能力が求められる。その上で「提案する」能力も必要だ。一方的に話をする事が得意な私に、3つめの「提案する」事はさして抵抗は無かったが、「聞く」「聞き出す」事が難しかった。聞かれる前に要望を一方的に話してくれる自分のようなお客様は稀であった。

状況を察しにくい私は、冗談やおせじをそのまま受け取る事が多かった。プランナーとお客様の会話の中でも、冗談やおふざけと本当に考えている事が入り混じる事がある。冗談の基準は人それぞれなので、初対面の人との会話では混乱しやすい。私は会話の間に出来るだけメモを取るようにして、その場や少し時間を置いてから「先ほどの○○は、実際に検討されますか?」などと確認を取るように心がけた。時々「それは冗談ですよ~真面目な人だなぁ」と笑われたし、半分呆れ顔の人もいたが、それが原因で怒られる事は無かった。何でもメモを取る事も、プラスに受け取るお客様が多かった。真面目だと思われることは、プランナーにとってはメリットだった。

プランナーに求められる「聞き出す」能力は、私にとって高い壁だった。始めの内は聞き出し方がわからず、過去にコミュニケーションでやらかしたトラウマから消極的になった。解決方法は、養成学校で教わった。「プランナーのお客様への発言には全て理由がある」「まずは聞いてみる。違っていればすぐ謝る」という事だった。簡単で当たり前に思える事だが、これらにも理由がある。結婚式は家族同士の繋がりともいわれるように、プランナーは時として家族のデリケートな問題に足を踏み入れる必要がある。人によっては、開けたくない扉を開けられるような不快感を持たれる場合もある。けれど「ご家族の結婚式を大切な一日にするため」という理由があり、失礼でない聞き方をすれば、聞かれた方も大抵は納得して、想いの内を話してくれる。感情的に拒絶する人もいるが、その場合はすぐに謝って訂正すれば、トラブルになる事は防げた。

養成学校では、講師の経験から失礼で無い聞き方や、お客様からの返答の様々なパターンを教えてもらい、備えておくことが出来た。自分がプランナーになってからは、質問の理由と聞き方のパターンを考えておき、実践しながら微調整をしていった。働いた6年間、コミュニケーションは私にとってずっと課題であり、確固たる成功法は見つけられなかった。何度かやらかしてしまい、お客様や上司に迷惑をかけてしまった事もある。けれど、少しずつ自分の接客が上達していく事は充実感があったし、お客様からの感謝の言葉や、結婚式が終わって数ヶ月経っても連絡をくださる方がいたりすると嬉しかったし自信になった。

自分のコミュニケーション下手を自覚して「確認」「メモを取る」を繰り返す。思った事を発言する前に一拍置いて考える。話す内容に理由を持ち、不快な反応をされたら直ぐに訂正する。


③想像することが困難
(臨機応変な対応が苦手で急な変更がや変化を嫌う。こだわりが強く視野が狭くなる。など)

大勢の人が集まる結婚式に急な変更・トラブルやハプニングはつきものでその際にどう対応するかが手腕の問われる点でもあった。だからこそ、結婚式を準備するスタッフは、様々な状況を想像してその時に必要な対応を考え、準備をする。それも、担当プランナーが1人で負うのではない。私が働いていた会社では、結婚式当日を迎えるまでに担当プランナー以外のプランナーが手配内容を確認する仕組みがあった。担当者が気付かない点も、他のプランナーが気付いて備えられるようにされていた。また、結婚式当日も主に結婚式の現場に立つのはプランナー以外のスタッフである。会場のサービススタッフ、介添え、ヘアメイクなど、複数の人達の経験値と技術力によって支えられている。
この仕組みにはとても助けられた。他のスタッフからの指摘で、当日のトラブルが防げた事は沢山あったし、何より私自身が準備できる事で精神的なゆとりが違った。新人の頃はそれでも想定外の出来事が起るが、私が混乱していても周囲のベテランスタッフが適切な対応をして大事にならずに済むことがあった。

経験を積み、様々なパターンが想定できるようなると、当日予期せぬハプニングが起きても冷静に対応が出来ている自分がいる事に私は気付いた。「ハプニングA」には「パターンA」の対応をすればいいし、予期せぬ「ハプニングX」が起きても「パターンAとCを組み合わせて」というように、応用が出来るようになっていった。先輩スタッフからの経験談も自分自身の対応パターンとして蓄積できる。色々なパターンを知り、自分の中に蓄積する事で、私は不測の事態にも混乱しないようになっていった。

強すぎるこだわりは、基準を間違えなければプランナーにとっては強みになった。接客業でも、結婚式は特にお客様の要望、夢が重視される。時にそれは現場スタッフの効率や固定概念と逆行する事もあるが、私はそれを「お客様の為」と捉えてこだわるようにした。周囲のスタッフにすれば、現場を考えない頑固な新人だっただろう。けれど周囲の人たちは実現方法を共に考えてくれたし、お客様からは感謝される事の方が多かった。6年間働くと、お客様至上主義の考え方に企業としてのブランドや判断基準も加えて考えられるようになっていった。基準を理解すれば、こだわりは長所となっていった。

急なトラブルの対応は苦手だが、チームでトラブルを想定して色々なパターンを想定内にしておく事で、トラブルが起きた時にトラブルとして捉えずに次の行動パターンを考えられる。こだわりは基準を明確にする事で強みに出来た。


まとめ:ウエディングプランナーという職業を選んで良かった、と思う。


ASDには様々な特性がありそれに伴う「苦手」があるが、ウエディングプランナーとして求められるコミュニケーション力・知識力を養う事で、私はその「苦手」を少しずつ克服したり、解決方法を習得していったと考えている。一人前のウエディングプランナーを志して努力した事が、そのまま日常のコミュニケーション能力の改善につながったのだ。

例えば、特性の③の不測の事態への備え方は、私自身が日常生活を送る上でも大切な考え方となった。プライベートでも私は急な変更、トラブルなど想定外の出来事でパニックになりやすい。けれど、人との会話や約束、旅行には不測の事態はつきものである。友人との会話、一日の予定などにも事前に頭の中で色々なパターンを想定して、自分の精神に耐性を付けておく事で、パニックを最小限に付き合う事が出来た。私は今でも、人のひとつの発言や行動から、複数の返答やパターンを考える事が習慣になっている。そんなに考えて疲れない?と言われる事もあるが、習慣なので負担は無いし、その方が生きやすいのである。

他の職業を選んでいたら…?と過去の選択しなかった道を想定する事は難しいし意味が無い事はわかっている。それでも、結婚式に関わる仕事を離れて別の接客業に従事した所、周囲の環境も要因ではあるがうつを発病したため、私の場合はウエディングプランナーが合っていたのだと考えてしまう。それくらい、努力する事が楽しく、その結果が自分の実になり人間力が鍛えられる仕事だったのだ。

とても尊く、重責な仕事なので業界に戻りたいと簡単には言えないのだが、ウエディングプランナーという職業に出会い、自分がそうして働いた事が私にとって何よりの財産と自信になっている。本当に良かった。6年間の私に出会い、育ててくれた先輩・仲間達にも心から感謝している。

                                       

6年間、自分の生活を捧げたウエディングの仕事の事を一度きちんと振り返りたかった。
精神的に最も参っている時期、私は何度も以前の自分を羨んだ。
それほどに、自分にとって大切なかけがえのない時間だったと、離れてから気付いた。

自分の6年間を振り返るのに成長度、感情、人間関係、色々な切り口があるが
今回コミュ障の理由となる自分の特性がわかったのでそれに基づいて振り返ってみた。
「私自身は××だけど、□□であれば出来るようになる」という事がわかるのは
また社会に出て働き続ける時に、幾分気持ちが楽である。

これからの人生で何があっても、あそこで働いた6年間の事は肯定したい。
肯定し続けられる選択をこれからも続けて行きたいと思う。

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