2018年1月14日日曜日

30歳、コミュ障を振り返る~その1~

精神科への通院で自閉症スペクトラム(以下、ASD)という脳障害を知った。
心理検査の結果、30歳現在の私にその数値は出なかったものの
自分のうつの原因であるコミュニケーション障害(以下、コミュ障)の解決策のヒントになるかと思い、
ASDについて調べて、自分の半生と照らし合わせる、という作業を始めた。

ASDの主な情報源は書籍5冊(図解2冊、漫画エッセイ1冊、自叙伝1冊、新書1冊)。
時々ネットでも調べたけれど、デリケート且つバイアスがかかりやすい話題なので
出来るだけ出典が明らかな情報を求めて、書籍を読み進めた。

調べて初めて知った事は、ASDを含む発達障害は
脳機能の一部の障害であり、生まれつきの特性という事だった。
「大人になってから発達障害になった」という表現は、医学的には間違いだそう。

幼少期(集団に属し始めた頃)に認知や行動のかたよりが顕著に出るのだが、
発達障害だと気付かずに大人になる事がしばしばあるらしい。
「変わった人」と言われるなど、生きにくさを感じながらも
成長と共に症状が変化したり、本人が社会に適応していく事もあるのだそうだ。
ただ、もともと社会への適応能力は低いので、うつ病などの精神疾患になり
その時に初めて発達障害に気付く、という事も珍しくは無いようだ。
(私のように、その時には数値では通常範囲の結果が出る事もあるらしい。)

私自身、ここ数年の内に「アスペルガー症候群」や「発達障害」
という言葉をメディアを通じて知った。
自分の幼少期である約20年前に、親や周りの大人が
その可能性を疑わなくてもおかしくないだろう。
私が精神科を受診せずに大人になった事もそれほどおかしい事ではない。

そして、ASDの特性は大きく分類すると3つに分けられる。

①人との関わり方が苦手で、社会的なやり取りが困難
(社会のルールにスムーズに適応できない。空気が読めずTPOに沿った行動が出来ない。など)
②コミュニケーションが困難
(言外に込められた意味をくみ取る事が苦手。言葉をそのまま受け取る。など)
③想像することが困難
(臨機応変な対応が苦手で急な変更がや変化を嫌う。こだわりが強く視野が狭くなる。など)

書籍に書いてあるこれらの特性と事例は、身に覚えのある事が多かった。
後悔するつもりはないけれど、自分の事を振り返って確認をしていきたいと思う。

                                      

関東の人口2万人規模(本日時点)の町で育った私は、一人っ子。家族構成は父、母、祖母。両親はどちらも関西出身で、家の中は関西弁、関西の文化で育った。母曰くことばを話すようになるのは早く、小さい頃からお喋りだったのは自分でも記憶している。そして、物心ついた頃から自分が喋ると時々周りの大人の表情が強張ったり、苦笑しながら「何でも知ってるのね」などと言われた記憶もある。私はそれをいけない事とは思わず、言い負かしたつもりで優越感を感じていた。

町内には同世代の子供も沢山いたけれど、同世代との遊びには我慢しなければならない事が多く、楽しいと思わなかった。私が自分の話をすると、自慢だと受け取った他の子が負けんと自分の自慢話をする、そういう子供特有のやり取りが嫌でしかなかった。思った事を言って相手の子が泣いてしまい、その周囲にいた子から「どうしてそんなひどい事言うの?○○ちゃんが可愛そうでしょ?」と非難された事もあった。どうしてかわからなかった。幼稚園お遊戯会で役を決める時に「主役をやりたい人は手を挙げて」と言われたので手を挙げたら、クラスメイトから白い目で見られたり、他の子の方が合ってるのにと言われたりした。それなら、先生が言った時に手を挙げればいいじゃない、と思った。

それでも皆と仲良くなろうと、流行っているアニメを見たり遊んだりするようになった。その内にハマってしまい、毎週のアニメは録画してもらって繰り返し見たり、イラストを真似て描いたり、おもちゃ屋さんにグッズを見に行ったりもした。友達とごっこ遊びをする事になったけれど、友達が私の中のキャラクター設定に反した言動をすると気に入らず、すぐに指摘して嫌がられた。数か月後、友達は新しいアニメや遊びを楽しんでいても、私はずっと同じアニメにハマっていた。

生まれた時から可愛がってくれる年上のお姉さん達が近所にいて、その人たちや母や母の友達や、自分を子供扱いしてくれる人たちと過ごすのが好きだった。そこでは好きなように喋っても、好きな遊びだけをしていても、許された。「賢い子だね」「大人には無い発想がある」「集中力がある」などと褒められる事が多く、居心地が良かった。

勉強は好きだった。ドリルなどを解いていくのはゲームのようで面白かったし、新しい事を人に言いふらすのも好きだった。それに、勉強がソコソコ出来れば、体育など苦手な事があってもも、クラスの中で悪く目立たない事もいつからか気付いていた。先生や大人に言われた事はその通りやるので、比較的気に入られる、優等生タイプだったと思う。

初めて不登校になったのは小学4年生の時。委員の仕事で学級会を進行しようとした私は壇上に立って、お喋りをするクラスメイトに誰彼かまわず注意をしていった。すると、小声で「あいつうるさい」というような悪口が聞こえてきたり、何度言ってもお喋りが止まらなかった。学級会の時間が終わって、一部のクラスメイトから私への無視が始まった。私は言われた事をやっているだけなのに、どうして?と理解できずに同じ委員の子などに聞いても「しょうがないよ」という反応。全く理解できず、学校に行く事が憂鬱になり、休みがちになった。

だんだんと自分が周りの子と違う事を認識し始めた私は、出しゃばらない行動をする事を心掛けた。成績も聞き分けもいい為に、先生からクラス委員長などを打診された事もあったが、断ったり、副委員長などの微妙なポジションについた。幸い、他のクラスに幼馴染や趣味が同じクラスメイトが数名いたので完全に孤立する事は無く、欠席日数も先生が問題視しない範囲にとどめて通っていた。家に帰ると、漫画やゲーム、文通やネット上のコミュニケーションに没頭した。幸か不幸か、両親は私に甘く、欲しい物は殆ど買ってくれた。買わないと私が癇癪を起すことがあったので、それを恐れていたのかもしれない。

小さな町なので中学校は小学校のメンバーがそのまま持ち上がる。中学で仲良くなった女の子に「私、小学生の時にあなたの事が嫌いで、私のお母さんが先生に、クラス替えの時はあなたと同じクラスにしないでくだい、ってお願いしにいったんだよ」と言われたが、自分には全く身に覚えが無い事だった。彼女は「でも今はあなたの事が好きだよ。」とも言っていたのだが、自分が知らない内に人を傷付けていた事が、衝撃だった。その女の子は、それから数か月後に私を無視し始めた。きっかけは覚えていないが、無視されても私が特に何の行動もしなかったら、彼女と彼女が仲良くしていた不良系グループの子数人に廊下に呼び出されて囲まれて「なんであんな事言ったの?」と言われたが、これもまた全く身に覚えが無かった。「謝りたいから、私が何を言ったのか教えて」と言うと、彼女は「ひどい」と泣き出し、不良系の1人が「覚えてないの?」と言って私の背後の壁を叩き、全員そろって立ち去って行った。

その出来事をきっかけに、ますます自分の異常性を疑い、話したり、学校に行く事が怖くなった。けれど、全員から嫌われるわけでは無く仲良くしてくれる子もいるし、先生からは生徒会への立候補を打診された。生徒会はさすがに断ったが、同じように塾の先生や家を訪れる母の友人などの大人達からは「賢い」「やればできるタイプ」などと期待をされる。異常だと言われない。でも、一部の同級生からは「頭おかしい」などと言われる。悪意はないのにおかしいと言われる自分と期待される自分。他人からの対応に違いがある事に戸惑い、学校では保健室やカウンセリングルームにいる事が多くなった。

自分の思い通りに出来るゲームや漫画の世界に没頭して、休みの日は家にいる事が多かった。集団生活が嫌で、高校進学にも希望が持てなかったが「この町があなたには合わないのよ」という親の言葉と、期待をかけてくれる先生たちの言葉を糧に高校進学を決めた。

                                       

中学までの約15年間を書き連ねてみたが、思っていた以上に疲れた。
分量もものすごい事になったので、続きは別の投稿に。

振り返ると、先に挙げたASDの特性が複合的に作用していたと思しき事が多くある。

↓さっき挙げた大きな3つの特性
①人との関わり方が苦手で、社会的なやり取りが困難
②コミュニケーションが困難
③想像することが困難
ここに書いた出来事は私の記憶の中に強く残っている一部分にしか過ぎないので
きっと日常的に小さなバグを沢山起こしていたのだろう。
知らない間に嫌な気分にさせていた人は沢山いるだろうし、
漫画のように過去にタイムスリップしても、当時の自分からは目を背けたい。

今から考えると、痛々しく自分自身に省みる点ばかりだが、
当時の私は自分への責任は感じていなかった。
ずっと同じ町の同じコミュニティにいた中学の卒業まで
辛いと思いながらも「私が楽しく過ごせる場所があるだろう」と希望を持っていた。
小さい頃から親が与えてくれていた沢山の本や漫画などの空想の世界、
会った事の無い文通相手やメル友とのやり取りからうかがえる楽しい日常。
それらはコミュニティを変えれば私にもきっと享受できるだろうと夢見る事で
学校に通う事も、クラスメイトと顔を合わせる事もどうにかやり切れたのだった。

高校から私の行動範囲は大きく変わるけれど、変わらない部分も沢山あった。
結局その変わらない部分に今も悩まされているのだが、続きは次のページで。

もしここまで読んでくれた人がいたら、本当にありがとうございます。
この記事を書いている今、ブログの存在を知る人はほんの数人だけど、
いつか誰かがこの記事を読んで何かを感じてくれていたなら幸いです。

0 件のコメント:

コメントを投稿